断絶への航海2。

https://blogs.yahoo.co.jp/nanonoid/72175503.html

↑この反省を前提としたうえで・・・

ああそうか。断絶感と癒合感って、ちょっと軸になるかもしれないな。

っていうのもさ、演芸場に行くと、断絶感の僻地に住んでそうな人に出会うことがあるんだよ。その多くは中年以降の老人で、他者がいることに気づけていないような人たちだ。

いや、自分の周りに他者がいるということを認知できてはいるだろう。でも、彼らは他者との癒合感が薄いようで、ちょっと配慮のない言動をするのね。ビニール袋ガサガサしたり、演芸中に出歩いたり。「携帯の電源はお切りください」っていうアナウンスも耳に入らないみたい。

でね、そんな彼らを「迷惑だ!」って非難することは簡単だろう。でも、生きていくこと自体が断絶への航海のようなものだから、彼らが今生きている断絶の僻地は、僕らもいずれは行きつく場所なのかもしれない。つまり、成長の成れの果てってことだ。そう思うとちょっと切なく、ちょっと怖くもあるな。

でね、僕が言いたいのは彼らの迷惑行為のことではなくって、他者と断絶しつつある人たちも、演芸場にきて、演芸を楽しもうとしているというところ。ここなんだ。

これってなんというか、とても人間的なことだろうし、おもしろいことだよね。

だってさ、演芸って共感の芸でもあるじゃない。演者さんの発話に触発されて自分のイメージの世界に入って、演者と自分の“あいだ”辺りに面白みが湧き出してくるわけじゃない。とても、断絶された状態では楽しめないわけだよ。それなのに、断絶感を感じさせる人たちも演芸場に来て、演芸を楽しもうとしているわけだ。

断絶の人がどんな楽しみ方をしているのかはわからないけど、ひょっとしたら、在りし日の癒合感を希求しているってことなのかもしれないね。っていうか、演芸にはそうした癒合感を取り戻させる力があるのかもしれない。

ロックの最大の敵とは!?(「2001年宇宙の旅」と「音量を上げろタコ!」の感想)

昨日は木場、今日は成田のIMAXで「2001年宇宙の旅」を観てきた!!

振り返ると、今日のほうが良く観れたな。

昨日は、1章、2章に引きずられて、3章をうまく観れなかったようだ。
昨日は人間と人工知能のことで頭がいっぱいで、3章の崇高さを味わいそこなった。
そもそも、昨日は‟崇高”って言葉自体頭をよぎらなかったしw

昨日は「2001年~」観た後、上野で「音量を上げろタコ!なに歌ってんのか全然わかんねぇんだよ!!」を観てきたんだ。監督は三木聡さんって人で、三木さんの映画はとにかくくだらなくて大好きなんだけど、今回、Yahoo!の映画レビュー見ると2点台なのねwww
で、「くだらない」とか「意味が分からない」とか書いてあって、「三木さんやっちゃったのかなぁ」って心配だったんだけど、観たらちゃんとしみじみとくだらなくて良かった!もう何もかも(緻密な)ダメで、最高の作品だった!


※以下、ネタバレにならないように書いたけど、ちょっと映画の内容に触れてるから注意。


で、この映画の中で「ロックの最大の敵はウィキペディア」っていうセリフが出てくるんだ。
主役(女性)がわかんないことをすぐにウィキペで調べてしまって、それに対してもう一人の主役(男性)が「客観性なんてどーでもいいんだよ!」とか言いながらこのセリフをいうの。いや、これは名言だよ。なんかね、たまに‟ウィキペ朗読人(ろうどくにん)”みたいな人に出会うときがあるのね。そういう人は、音楽や映画や絵画の感想が、まるでウィキペディアを朗読しているような、客観的な事実の確認で終わってしまうんだ。つまり、自分が作品を観て、なにをどう感じたのか、そういうことを自分の言葉で表現できてないの。こういう人と会話をしていても心が躍らないからつまらない。ウィキペ朗読人になってしまうってことは、まず、自分の感じたことを表現する練習ができてないってことだろうね。きっとそういう人も練習すればある程度は表現できるようになるとは思う。それとともに、社会的な価値評価(ものさし)の内側に自分を規定することに慣れてしまっているってことなのかもしれないな。良く言えば‟社会人”ってことなんだろうけど、そういうのは、どうも色気がなくっていけないねぇ。

で、「音量を上げろタコ!~」を観た後、どうにも心のもやもや感が晴れなくて、今日は成田に行って「2001年~」を観てきた。
成田のIMAXはとにかくバカでかいらしく、前から行こう行こうと思ってたんだけどなかなか行けずにいて、今回は思い立つことができたんで行きました。

でね、おもしろいことって起こるもんだね。
映画の休憩時間まで、僕は昨日とあまり変わらないスタンスだったんだ。なんとなく心にもやっとしたものが残ったままだった。
で、休憩中にLINEを開いたら、友達からのメッセージに‟崇高”とい表現が入っていた。

この言葉なんだ!!!!
僕が「2001年~」を観て感じてたのは、まさにこの言葉なの!!
でもね、昨日の僕は全然この言葉が出てこなくって、解釈しようとばかり試みてしまってたんだ。
だから気持ちと言葉が一致しないで、もやもやしたままだったんだ。


せっかくだから崇高をウィキペで調べてみようwww
「崇高(すうこう)とは美的範疇であり、巨大なもの、勇壮なものに対したとき対象に対して抱く感情また心的イメージをいう美学上の概念である。計算、測定、模倣の不可能な、何にも比較できない偉大さを指し、自然やその広大さについていわれることが多い。」


そうそう!これこれ!!
巨大な山や海を見たときに感じる感覚。
荒れる川や流れ落ちる滝を見たときに抱く驚異の感覚。
去年見に行った「怖い絵展」に崇高のコーナーがあって、そこで説明されていたのがこういうことだった。
僕はこの言葉を忘れていたんだ。


思えば遥か昔、「2001年~」を最初に見たときの感覚って、まさしく崇高感だったよなぁ。
この映画は、1章、2章と知的ゲームみたいな展開を見せて、3章で一気にその枠組みを取っ払っちゃうわけだ。そして、観客はただひたすら抽象的な映像を浴びせられ、理解が追い付かなくなり、最後にはただ崇高さだけが残ることになる。
最初に感じたのはこの感じだったんだよなぁ。

そのあと、僕は小説や解説本をいろいろ読んで映画を知的に理解するようになったけど、最初に感じたのはとにかく‟わけわかんねーけど、なんかすげーよ!”っていうやつだ。つまり崇高感。

休憩中に崇高って言葉に出会ってからは、言葉と自分が感じてることが結びついて、すっきり見ることができました。

最後の「美しき青きドナウ」で気持ちよく現実に着地することができて、今回の鑑賞は気持ちよかった。
成田IMAXがバカでかかったってのも崇高感に拍車をかけてくれて、良い鑑賞ができました。

そうそう、25日にはCBGK!の「実験落語neo」に行ったんだ。
柳家権太楼師匠はまくらの中で「なんでもかんでもスマホで調べるのはつまらない!わかんないことはわかんないままでいいの!!」ってなことを言ってたっけな。

きっとそういうことなんだろうな。
ウィキペ朗読人になったら崇高さを感じることもできなくなってしまう。

あ。
自分の感じたことを言葉で表現するのに1日かかってしまったwww
これが老いかもwww

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之助さんのお手伝い。

お父さんの津濡裳祇が欲しくて仕方がない之助さんは、お父さんの手伝いをしてみることにしました。

「お父さん、おいはお手伝いをしたいのだ!」
「そうか、おまいはお手伝いをしたいのだな。それならば!」

お父さんにそう言われた之助さんは、みるみる顔が青ざめて、小さい人間になってしまいました。

「こりゃいかん!」

お父さんはそう言うと少し驚いたふりをして、動きが少し早くなりましたが、もうどうしようもありません。お父さんは生きてきたことを後悔し、小さくなってしまった之助さんを背負い旅に出なくてはなりません。それは贖罪の旅です。津濡裳祇を売り歩く贖罪の旅です。

之助さんを背負ったお父さんは、隣町まで来ました。そうしてしばらくすると、もといた町に戻ってきました。そしてしばらく考えたあと、また隣町にやってきたのです。

「はーししゅうー、はーししゅうー、トウドとうどの津濡裳祇だよー!トウドとうどの津濡裳祇だ!米かぶりの之助さん、津濡裳祇かぶりのお父さん!」

お父さんは決意をしたので、こうした独創的な売り声を作り出すことができます。

すると、御領地の役人が三名、コヌテを抜いてお父さんに飛びかかってきました。

お父さんは小さい頃、仲間が三人いました。お父さんは三人の仲間と、よく授業を抜け出して、みんなを欺く遊びをしていました。あるとき仲間の一人が「おいは欺きを止める」と決意して、真人間になりました。お父さんはアナーキストなので、真人間というものは畜群だと罵りだしましたが、どうもいい気分になれません。

「おりも欺きを止めねばならんか」

お父さんはそう考えると少し小さくなり、之助さんになりました。

之助さんとなったお父さんはコヌテをむんずと掴み、むんずと投げ出しました。役人たちは「こりゃあいかん」と申し訳ない気持ちで逃げて行きました。

役人に刃向かったので、之助さんとなったお父さんはお父さんに戻りました。そして、お父さんは自由になったのです。

しかし、之助さんは芳しくありません。どんどんなにもできなくなり、つらくなりました。

お父さんは、ここで初めて、人をともぬことを知ります。津濡裳祇だけではなく、ともぬなれなければ之助さんは辛いままなのです。

そのとき、一筋の光が聖堂に入り込んできました。それは聖アベンティヌスのともぬりです。津濡裳祇が3つに折れ4つに折れ、いたるところで濡裳が成長していきます。

「お父さん・・・お父さん・・・ありがとうお父さん・・・」

之助さんはそうつぶやくと大きく大きく大きくなり、お父さんの津濡裳祇を見ることができました。


お父さんはもう泣いていません。お父さんは之助さんでもありません。これが、之助さんのお手伝いだったのです。

スカイリム「死の体験」について。

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・・・僕はね、これまでウェアウルフとして心臓をたくさん食べてきたんだ。perkもすべて最大にした。でも、同胞団のじいちゃんは「ウェアウルフはいかがなものか?」とか言うし、仲間も「俺ウェアウルフやめる!」とか言い出したから、僕もウェアウルフはやめたんだ。

そんな僕がナミラ信者のエオラと出会ってしまった!

もちろん、人それぞれの生き方は尊重すべきだとは思うよ。まして、レイシズムがバリバリ存在しているスカイリム地方では、お互いの生き方の多様性を認めてあげることは大切なことだと思う。だから僕は、エオラに偏ったところがあったとしても、それはそれとして認めてあげて、とりあえず洞窟に巣くっていたドラウグルを一掃してあげた。エオラは、「後はナミラがやるから」みたいなことを言ってたから、聖堂の人を洞窟に連れて行くお手伝いもしてあげたんだ。

でも、まさか自分がナミラ信者たちとおなじ行動を取らされることになるなんて!!

・・・後から調べてわかったんだけど、ナミラ自身は自分の信者たちに、別にエオラたちのような行動を勧めている訳ではないようだね。そうではなくて、ナミラは、社会に受け入れられないようなアンチな在り方も認めてくれるデイドラみたいなんだ(Twitter調べだから間接的な情報だけど)。その意味ではとても理解できるし、必要なデイドラなんだと思う。でも、ナミラ信者であるエオラが僕に求めてきたのは“食人”なんだ・・・。

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僕はすでにウェアウルフとしてたくさんの心臓を食べてきた。だから、すでに同類といえば同類なのかもしれない。でも、その行動の動機は、彼らと同じとはいえないと思う。

なぜなら、これまでの僕は、目の前に立ちはだかる者の心臓のみを食べてきた。意味がないわけじゃない。たぶん彼らが僕の前に立ちはだからなければ、僕は彼らの心臓を食べはしなかっただろう。だがしかし彼らは現れた。そして僕は倒した。だから僕は心臓を食べた。なぜなら僕はウェアウルフだったから。

でも、“ウェアウルフだから”というだけでは、動機として不十分かもしれないな。なぜなら、ウェアウルフであっても、倒した者の心臓を食べずに済ますことはできたからだ。そうなると、心臓を食べ続けてきた僕の動機はいったいどこにあったのだろう?

それはたぶん、“成長したいから”だろうな。心臓を食べて成長して、ウェアウルフとしての能力がどこまで上がるかを見たかったからだ。だから僕はperkが最大になるまで心臓を食べ続けたんだ。しかしそれは、僕の前に立ちはだかる者が現れた場合に限ってだけど・・・。

だがしかし!!
ナミラ信者たちの動機はなんだ!!
彼らはただ!!
彼らはただ、“人肉を食べたい”という自分の欲求を満たすために行動しているだけじゃないか!!!!

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百歩譲って、好きな人の腕や目玉や脳を食べたいのならまだわかる。そこには(偏ってはいるけど)意味があるからだ。でも、彼らはただ食べたいから食べてるだけじゃあないか!!!!

そして、この欲求を認めてくれるデイドラとして、彼らはナミラを信仰しているようだ。・・・これじゃあ単に自分の欲求を合理化するために信仰しているだけだ・・・同胞団の連中とは行為に対する動機の格が違う・・・。

そうだ、同胞団のじいちゃんは「ウェアウルフはいかがなものか?」とか言っていて、仲間も「俺ウェアウルフやめる!」と言いだしてやめていったんだ。きっと、彼らの中にどんなに合理的な動機があったとしても、人の心臓を食べるという行為を府に落とすというのは難しかったんだろうな。だから僕も、先人たちの思いを受け取って、自分の了見を見つめ直して、ウェアウルフをやめることにしたんだ。

そんな僕が今!
ウェアウルフのときとはまったく格の違う動機のために食人を行えと言われている!!
こんな馬鹿げたことがあってたまるか!!!!

・・・だがしかしこれはゲームだ・・・。ゲームであるということは、何度だってやり直しができる・・・そしてこれは「死の体験」というデイドラクエストであるので、クリアすれば役だつデイドラアーティファクトがもらえるかもしれない・・・。

ということで僕は、とりあえず目の前に横になっている聖堂の人を食べてみた。ゲームだから味はわからなかったけど、きっと血とか肉の味がしたんじゃないかな?でも大切なのはそこじゃない。そのあとの気分だ。僕はゲーム内で人を食べたあと、なんだか嫌な気分になってしまった。悪いことをしたような、自分の履歴を否定したような、そんな気分になってしまったんだ・・・。

・・・。

僕は海外ドラマの「ウエストワールド」が好きだ。ネタバレは避けたいので詳細は書かないけど、僕はこのドラマを見て、次のような主題を受け取った。それは、“人は、どんな行為も認められている状況で、どんな行為を選択するだろうか?”というものだ。

行為には責任がつきまとう。そしてその責任の多くは、他者からの視線によるものであるだろう。簡単に言うと、「僕は人を殺すと社会で生きづらくなる。だから、なるべく人を殺さないようにして生きている」といった感じだ。

だがしかし、こうした自分の行動を規定する他者からの視線が薄くなったとき、自分の行動の責任はほとんど自分のものとなってしまう。人を殺すのも助けるのも、どの選択も自分のものだ。まさにその人の人間性そのものがさらけ出される限界状況が、ドラマ「ウエストワールド」の世界にはあるんだ(もちろんこれは僕の受け取り方でしかないかもしれないけど)。

この主題は、なにも珍しいものではない。戦争映画などではよく出くわす主題だと思う。「ウエストワールド」は、SF設定の中でこの主題がうまく表現されていたから、僕はおもしろく感じたんだ。

そして、今僕はスカイリムの中で、まさしくこの「ウエストワールド」の主題と似たような状況に置かれてしまったようだ。

僕は“どんな行為も認められている”という状況に甘んじて、聖堂の人を食べてしまった。そして僕は、悪いことをしたような、自分の履歴を否定したような、嫌な気分になってしまったんだ。僕は僕の中にある良心の呼び声を無視した結果、まるで自分で自分の在り方に対する責任を放棄してしまったような、そんな不全感を味わうことになってしまったんだ!!

・・・だがしかし、これはゲームだ・・・ゲームであるということは、何度だってやり直しができる・・・ああよかった・・・。

僕は自分の在り方に対する責任を引き受け、自分の履歴を救ってあげるために、食人の一歩手前に戻り、ナミラ信者たちを一掃してみることにします。

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はたして、僕のドヴァキンは救われるのだろうか?

スターウォーズの続三部作はこんな話だったらいいなぁっていう妄想。

僕は2015年2月22日に、“スターウォーズの続三部作はこんなだったらいいなぁ”っていう妄想をしてたんだ。ぜんぜん外れたけどwでもラスボスプレイガス説は生きてるかも。


以下妄想


今回の物語は、ジェダイアカデミー創設後の話ってことなんだろうね。ルークの指導でジェダイ騎士団は復活しつつあって、レイアも共和国を再建できて、ソロはクローン軍団の長になって随分たったころの出来事だ。

シスの始祖である、ダースプレイガスが復活するっていうのがエピソード7の話なんだ。プレイガスはフォースだけの幽体になってたんだけど、シスたちの手で実体を得てしまう。プレイガスの復活を阻止しようとジェダイ騎士団はがんばるんだけど、阻止できずに目覚めさせてしまうんだ。だから「フォース・アウェイキング(シスのフォースが目覚める)」なんだね。

そして、エピソード8はプレイガスが暴走していく様が描かれるんだ。プレイガスはさらなる力を求めて、次々とシスを食らっていくんだ。その力は巨大になりすぎて、もはやプレイガス自身も止められなくなってしまい、次々と破壊を繰り返す化け物になってしまう。もはやジェダイの手にもシスの手にも負えなくなってしまったので、ルークは自分の息子の制止を振り切り、自ら肉体を改造し、ダースベーダー2になってプレイガスに立ち向かうんだ。ここまでがエピソード8の話。

エピソード9はダースベーダー2とプレイガスの戦いから始まるんだけどダースベーダー2はプレイガスに吸収されてしまい、ついにプレイガスはとんでもない化け物になってしまうの。そこで、ルークの息子は若きシスであるダースなんとかと手を組んで、プレイガスに挑むんだ。ジェダイとシスの合体攻撃でプレイガスは滅び、ついにフォースに安定がもたらされるという結末だ。



読み返すとありきたりな話だな。
つまんないや。

次郎長とその仲間たち。

僕は次郎長とその仲間たちのことを良く知らないんだ。次郎長とその仲間たちについては講談や浪曲の中で断片的にしか知らず、ようやく最近になって、その像がだんだんと固まってきたところなんだ。その像をひと言で言うと、「義理人情に厚いやくざな人たち」という感じだ。

次郎長とその仲間は昔の人だから知らなくても当然だ。だがしかし、よく考えたら僕は目の前にいるこの人間のことも知らなかった。目の前にいるその人間は昔の人間ではないし、僕とその人間は同じ時間軸にいる。手を伸ばせば届くような、圧倒的な現実感の中にその人間はいるのだ。

僕は電車に乗っている。そしてその人間は、目の前の座席に座っている・・・。

その人間は20代半ばくらいだろうなぁ。ぱっと見、シュッとした顔立ちでシュッとした格好をしているからモテたりするんだろうな。とても仕事帰りとは思えない格好であるから、きっと彼女はシフト制の仕事をしていて、今日はお休みの日だからシュッとした格好で出かけたんだろうな。この時間でもシュッした体を保てているってことは、きっと飲み会の帰りではなさそうだ。今日は自分の楽しみのために行動したのだろう。でもこの暑さだ。不用意に外出したら死んでしまう。そうか、映画だな。この場所を考えると、コレド室町だ。彼女はコレド室町のTOHOシネマズ日本橋で映画を見た帰りなんだ。ちょっと微笑みながらスマホを操作しているってことは、きっと見た映画は楽しい映画で、その映画の感想をいろいろ探して、自分と同じような感想を見つけたから彼女はちょっと微笑んでいるんだ。

彼女はいったいなんの映画を見たんだろう?シュッとしたシフト制の女性が見て楽しめる映画といったら「ハン・ソロ」だろうなぁ。

ああそうだ。「ハン・ソロ」だ。ハンはハンだけど、どちらかというとソロなんだ。ハンである彼はとにかく現実から逃げ出した。するとソロになってしまい、将軍になってしまい、息子に殺されて伝説になった。

彼はソロなんだ。彼はどこにもいなくて、ただ他者の視線が彼の在り方を特徴づけているだけなんだ。きっとこのシュッとした女性は、そんなソロに自分の在り方を重ねたのだろうな。

彼女も逃げる人だった。そしてソロのように出来事に対応しているだけなんだ。シフト制の仕事とは、たぶんどこかの企業の受付で、本当はそんな気は全然ないのに、ふとしたきっかけで社長から“仕事ができる愛社精神に溢れる人間”と理解されてしまい、秘書としての仕事をしないかと言われているんだ。彼女にしたらそんなことはどうでもいいことで、どちらかといえばお休みの日に自分の好きな映画が見れれば満足なんだ。でも、彼氏がいるわけでもないし、秘書の仕事をしてもいいのかなぁって思っている。

・・・でも、彼女はそんな仕事はやらないだろうな。彼女はソロなんだ。そんな仕事は望まず、今よりもう少し割のいいシフト制の仕事を探すんだろうな。でも彼女はソロだから、次の職場でも他者の視線にさらされて、“仕事のできる人”という意味を与えられてしまうんだ。・・・そして彼女は将軍になり、息子に殺されて伝説になり・・・。

だがしかし、これは客観じゃない!
これは僕が瞬間刹那に思い描いたこのシュッとした女性像で、たぶん彼女の現実とは一致しないだろう。このシュッとした彼女は圧倒的な明証性を持って僕の目の前におり、手を伸ばせば触れられるほどの現実感があるにも関わらず、彼女の在り方は僕の一方的な意味付与の内側にしかないんだ。

たぶん彼女は、あと数駅したら降りていくのだろうな。そうしたら、おそらく彼女と会うことはないだろう。これが最初の出会いであり、今生の別れだ。そして彼女は決して客観にはならず、僕が投げかけた意味付与にとどまるんだ・・・。

だがしかし!
だが、次郎長とその仲間たちはどうだろう?

僕は次郎長とその仲間たちのことを良く知らない。講談や浪曲の中で彼らの実態を知るようになり、徐々にその像が作り上げられてきたところだ。しかしその姿は、シュッとした女性像のように、僕の一方的な意味付与ではなく、共通了解の中にあるのだ。なぜなら講談や浪曲はおもしろいから!おもしろいから!

僕は次郎長とその仲間たちのことを良く知らない・・・そして、彼らは昔の人だから、会うこともできない・・・電車の中で偶然居合わせることもないんだ・・・。

だけど、僕は彼らを客観化させることはできるんだ!講談や浪曲を楽しむごとに、僕の中には次郎長とその仲間たちの像が立ち上がり、その像は演芸ファンたちと共有できる“客観的次郎長とその仲間たち像”となって行くんだ!

だから、僕は講談や浪曲を楽しむことにしよう。そしてシュッとした女性には別れを告げて、次郎長とその仲間たちを受け入れればいいんだ。

たぶん、そういうことなんだと思う。

『レディ・プレイヤー1』の感想。

先日、『レディ・プレイヤー1』を観てきたんだけど、もやもやが止まらない。

観てる最中も観終わってからも、もやもやもやもやもやもやもやもやして、ネットでこの映画の評判を調べたら妙に評価が高かったりもして、ますますもやもやもやもやもやもやしてしまった・・・っていうか今もしているw

まずね。
僕はこの映画をSF映画として観ようとしたところからダメだったんだ。“人々は現実に絶望したから仮想現実に逃げ込んだ”っていう設定なんだけど、映画で描かれている仮想現実はなんだか貧弱なのね。PSVRみたいなグラスで仮想現実の中に入るんだ。視覚だけでは代替現実にはなりそうもない。途中から仮想現実での体験が身体にフィードバックされるスーツみたいなのが出てくるんだけど、それは金持ってる人たちのもののようで、貧困層は視覚のみで仮想現実を体験しているみたいだ。知覚全部で仮想現実に入っていけるなら代替現実にもなれるだろうけど・・・。そして、この仮想現実界で人々がなにをするかというと、ゲームをするのね。

どうもこの映画で表現しているのは“仮想現実に逃げ込んでいる人間”ではなくて、“ゲームにハマっている人間”のようだ。現実経験の曖昧さとかはどうでもいいみたい。っていうか、そこは主題にも昇ってこないみたい。





仮想現実が出てくることは出てくるけど、この映画で描きたいのは単に“ネトゲにハマっている人々”ってだけのようだね。そんなに仮想現実である意味合いはないみたい。まずこの辺の設定の雑さにげんなりしてしまった。

でね。
この映画最大のウリは、劇中にさまざまなサブカルポップカルチャーのネタが仕込まれているってところ。「AKIRA」、「ガンダム」、「シャイニング」、「ゴジラ」などなど、同じみのネタが出てきます。ATARIのゲームネタも出てくる。でね、なんとも言えないのが、こうしたネタの取り扱い方なんだ。

AKIRA」って、初めて観たときにびっくりしなかったかい?目に見えない超能力と復興後の都市に集結していくパワーのようなものがうまく隠喩として賭合わさっていて、心を揺さぶられたものだ。

ガンダム」を初めて観たときにびっくりしなかったかい?子供向けのロボアニメかと思ったら、戦争や人間の理不尽さが描かれていたりして、何ともいえない気分になったものだ。

「シャイニング」って、初めて観たときにびっくりしなかったかい?シンメトリックな映像美と、アルコール問題とも取れる表現には驚いた。何度も何度も見直したものだ。

ゴジラ」は日本人のトラウマをえぐる作品だ。

そうなんだ。劇中のネタにされている作品たちは、なんらかのかたちで創造的であって、これまでの王道的な表現に一太刀浴びせるような力強さを持っていたはずなんだ。

でも、映画の中では、これらの作品たちが単なる商品として扱われてしまっている(ように感じられた)。“AKIRAのバイクはクール”、“ガンダムはかっこいい”、“シャイニングは怖い”、“ゴジラはかっこいい”って感じで、元の作品が持っていた力強さなんて根こそぎ削ぎ落とされてしまっている。

まぁ、そういう映画だから、鑑賞するときはお酒をたくさん飲んでバカになる必要があります。細かいことは気にせず、怪獣大進撃を観ているときのような心持ちになることが大切です。

視点を変えれば楽しめる映画であることは確かではあるけど、この映画の小狡いところは、ネタにされてる作品たちを愛があるように扱っているというところ。つまり、映画を観た人たちが批判できないような仕方で描いているってところなんだ。僕はここが不快で不快で仕方なかった。単純に、“大人ってずるい”と思ってしまった。

もし、この映画そのものに、映画の中でネタにされてる作品たちが持っているような創造的な力強さがあれば僕の感じ方も違っていたかもしれない。ネタ作品を利用しながら、さらに王道的表現に一太刀浴びせるような映画であったなら僕は好きになっていたと思う。でも、この映画にはそうした創造性がほとんどないんだ。優等生的なストーリーで最後まで進むし。で、さらに不快なのは、この映画では“現実は現実であって仮想現実は現実ではない。仮想現実よりも現実のほうが大切”という価値観がねじ込まれているってところ。うーん・・・うーん・・・なんだか20~30年くらい昔の映画を観ているような気分になったw

なので、この映画は良い映画です。
倫理的・道徳的に正しい映画です。

ただ僕は、大人たちにうまく言いくるめられてるような感覚がしてたまらなく嫌だった。
大人怖い。こんな映画作られたら文句言えないものな。

たぶん、サブカルたちには、この映画に包摂されないような力強さがあるはずだ。その力強さはこんなにお行儀良いものではないと思う。創造の可能性は、非レディプレの中にあるのかも。