次郎長とその仲間たち。

僕は次郎長とその仲間たちのことを良く知らないんだ。次郎長とその仲間たちについては講談や浪曲の中で断片的にしか知らず、ようやく最近になって、その像がだんだんと固まってきたところなんだ。その像をひと言で言うと、「義理人情に厚いやくざな人たち」という感じだ。

次郎長とその仲間は昔の人だから知らなくても当然だ。だがしかし、よく考えたら僕は目の前にいるこの人間のことも知らなかった。目の前にいるその人間は昔の人間ではないし、僕とその人間は同じ時間軸にいる。手を伸ばせば届くような、圧倒的な現実感の中にその人間はいるのだ。

僕は電車に乗っている。そしてその人間は、目の前の座席に座っている・・・。

その人間は20代半ばくらいだろうなぁ。ぱっと見、シュッとした顔立ちでシュッとした格好をしているからモテたりするんだろうな。とても仕事帰りとは思えない格好であるから、きっと彼女はシフト制の仕事をしていて、今日はお休みの日だからシュッとした格好で出かけたんだろうな。この時間でもシュッした体を保てているってことは、きっと飲み会の帰りではなさそうだ。今日は自分の楽しみのために行動したのだろう。でもこの暑さだ。不用意に外出したら死んでしまう。そうか、映画だな。この場所を考えると、コレド室町だ。彼女はコレド室町のTOHOシネマズ日本橋で映画を見た帰りなんだ。ちょっと微笑みながらスマホを操作しているってことは、きっと見た映画は楽しい映画で、その映画の感想をいろいろ探して、自分と同じような感想を見つけたから彼女はちょっと微笑んでいるんだ。

彼女はいったいなんの映画を見たんだろう?シュッとしたシフト制の女性が見て楽しめる映画といったら「ハン・ソロ」だろうなぁ。

ああそうだ。「ハン・ソロ」だ。ハンはハンだけど、どちらかというとソロなんだ。ハンである彼はとにかく現実から逃げ出した。するとソロになってしまい、将軍になってしまい、息子に殺されて伝説になった。

彼はソロなんだ。彼はどこにもいなくて、ただ他者の視線が彼の在り方を特徴づけているだけなんだ。きっとこのシュッとした女性は、そんなソロに自分の在り方を重ねたのだろうな。

彼女も逃げる人だった。そしてソロのように出来事に対応しているだけなんだ。シフト制の仕事とは、たぶんどこかの企業の受付で、本当はそんな気は全然ないのに、ふとしたきっかけで社長から“仕事ができる愛社精神に溢れる人間”と理解されてしまい、秘書としての仕事をしないかと言われているんだ。彼女にしたらそんなことはどうでもいいことで、どちらかといえばお休みの日に自分の好きな映画が見れれば満足なんだ。でも、彼氏がいるわけでもないし、秘書の仕事をしてもいいのかなぁって思っている。

・・・でも、彼女はそんな仕事はやらないだろうな。彼女はソロなんだ。そんな仕事は望まず、今よりもう少し割のいいシフト制の仕事を探すんだろうな。でも彼女はソロだから、次の職場でも他者の視線にさらされて、“仕事のできる人”という意味を与えられてしまうんだ。・・・そして彼女は将軍になり、息子に殺されて伝説になり・・・。

だがしかし、これは客観じゃない!
これは僕が瞬間刹那に思い描いたこのシュッとした女性像で、たぶん彼女の現実とは一致しないだろう。このシュッとした彼女は圧倒的な明証性を持って僕の目の前におり、手を伸ばせば触れられるほどの現実感があるにも関わらず、彼女の在り方は僕の一方的な意味付与の内側にしかないんだ。

たぶん彼女は、あと数駅したら降りていくのだろうな。そうしたら、おそらく彼女と会うことはないだろう。これが最初の出会いであり、今生の別れだ。そして彼女は決して客観にはならず、僕が投げかけた意味付与にとどまるんだ・・・。

だがしかし!
だが、次郎長とその仲間たちはどうだろう?

僕は次郎長とその仲間たちのことを良く知らない。講談や浪曲の中で彼らの実態を知るようになり、徐々にその像が作り上げられてきたところだ。しかしその姿は、シュッとした女性像のように、僕の一方的な意味付与ではなく、共通了解の中にあるのだ。なぜなら講談や浪曲はおもしろいから!おもしろいから!

僕は次郎長とその仲間たちのことを良く知らない・・・そして、彼らは昔の人だから、会うこともできない・・・電車の中で偶然居合わせることもないんだ・・・。

だけど、僕は彼らを客観化させることはできるんだ!講談や浪曲を楽しむごとに、僕の中には次郎長とその仲間たちの像が立ち上がり、その像は演芸ファンたちと共有できる“客観的次郎長とその仲間たち像”となって行くんだ!

だから、僕は講談や浪曲を楽しむことにしよう。そしてシュッとした女性には別れを告げて、次郎長とその仲間たちを受け入れればいいんだ。

たぶん、そういうことなんだと思う。