シン・エヴァの感想。

f:id:pukut:20210412035603j:plainシン・エヴァンゲリオン2回目鑑賞終了!

岡田斗司夫氏が配信の中でシン・エヴァを卒業式と表現していて、僕もなるほどなぁと感じたから、今回はスーツを着てネクタイを締めて、背筋を伸ばして観てきたよ。


※以下ネタバレあり!


新劇場版を通してみると、真希波・マリ・イラストリアスってキャラがすごかったな。新劇場版で初めて登場したキャラで、旧作に親しんでいる人にとってのマリは異他的なんだ。なんでこのキャラがエヴァ界に割り込んでくるのかわからない。さらに、マリの履歴はあまり深く描かれないの。彼女がどんな人かはぼんやりとしかわかんない。もちろん、設定はいろいろあるだろうけど、あくまで映画の中では、彼女の表面的な個性くらいしか伝わってこない。旧作から引き続いて出てくる登場人物たちについては、僕らは彼らの内面までなんとなく知ってるわけだ。だからまぁ、彼らには親しみがある。彼らのなじみ深さに比べて、マリはまったく異他的な他人なの。でね、面白いのは、このまったく異他的な他者が、まるで救いの女神のように描かれているところなんだ。シンジ君は身内のような旧作の登場人物たちにまみれてしまうのではなくて、成長したシンジ君は異他的なマリに救われるんだ。僕にはここがとても面白く感じたな。

そして、この映画の軸はイマジナリーとリアリティってところかな。新劇場版を通してみると、もちろんSFロボットアニメだから全部イマジナリーではあるんだけど、序や破は、現実世界の上で空想のエヴァ使徒が戦うっていう、現実から掴まれている感じがあった。でもQではこの現実感がほとんどなくなって、イマジナリーの世界で物語が進んでいるようだった。Qは空飛ぶ駆逐艦とか出てくるし、抽象的な場面が多かったりするし、夢の中の出来事のようだった。そしてシン・エヴァの物語はリアリティを取り戻す作業のようだった。第3村では、赤い色に包まれて宙に浮く電車や鉄柱っていうイマジナリーが具現化したような世界の中で、農作業っていう圧倒的にリアリティのある作業をしちゃったりするの。そして、南極にあるセカインドインパクトの爆心地に突っ込んで行くシーンは、イマジナリーとリアリティの源泉に突っ込んでいくように感じられた。それは自己意識の源泉だ。私たちが対象世界と認識している現象が形作られる以前の、イマジナリーとリアリティの出所となっている領域に潜っていくようだった。様々な儀式を通してたどり着いたマイナス宇宙というのは、対象化以前の世界なのだろうな。西田哲学では絶対無といわれ、井筒俊彦が無分節と表現した世界。道元さんは心身脱落っていうだろうし、現象学では受動的綜合とかになるだろう。それは対象化以前に動いている“生命そのもの”という感じだ。その世界は対象化できない世界であるから、シンジ君は自分の記憶を利用して認識する必要があったわけだ。そうしたわけで物語の後半は自己の深い部分に潜っていく感じがした。

そして、シン・エヴァは了解の物語でもあった。私たちが生きている世界の世界らしさってのは、必然ってところにある。私たちの目の前に起こった出来事は起こってしまった以上、どう頑張っても覆らない。目の前に起こる出来事は必然だ。そして、世界は私たちがどんなに“こうあるべき!”と望んでも、必ずしもそうなるとは限らない。ランダムに起こる世界の必然には、どうしたって受け入れがたい了解不能な出来事も起こりうる。ゲンドウにとって、ユイが死んだという必然は、どうしても受け入れがたいことなんだろうな、だから儀式を行って対象世界以前に潜り込んで、ユイを見送ってあげる必要があったんだろうな。受け入れがたい出来事であるほど、決死の覚悟をして自己の深いところまで潜る必要があるのだろうな。最後30分の対話は、絶対無や無分節から世界を捉え直す作業のようだった。

まとめ

序:リアリティの崩壊

破:リアリティとイマジナリーのせめぎ合い

Q:イマジナリーへの没落

シン:リアリティとイマジナリーの源泉に立ち戻っての世界の捉え直し。

世界の捉え直しをやり遂げて戻ってきた先に待っていたのは異他的な他者のマリだった。シンジ君の行き着いた先は、理解不能な他人だったんだ。

だからまぁ、好きな人のことは大切にしようね。ありがとうをして握手をしよう。それが他者と仲良くするためのおまじない。