マインドフルネスメモ

【メモ】
だからさ、マインドフルネスでやっていることはノエシスをトレースするってことだよ。通常ノエシスノエマと一体になっていて、還元して仕組みを緩めてあげないと意識されないことなんだけど、マインドフルネスは呼吸に集中してDMNが暴走しやすい状態を作ってあげて、暴走した瞬間にそのノエシスを捕まえる訓練をするわけだ。そして直接的現実に戻ってくる訓練をすることで前頭前野が鍛えられて、思考に気づいて止めることができるようになるわけだ。で、これだけじゃダメで、日常生活の中でもこうした気づきができるようになるため、行動時の自己洞察ってやつが大切になるんだろうな。その時のキーが「人生価値」ってことで、人生価値を崩壊させる行動ってことに気づけたら直ちに抑制して価値実現的な行動に切り替えるってことが実践的だし、これこそが当為だ。

で、なんだっけ。そうそう、ノエシス。マインドフルネスはノエシスに気づく訓練とも表現できそうだって話だ。そして、自他未分とか絶対無とは場としての自己とかそういうのってのは、ノエシスそのものを体感していると言えるのかもしれないな。観察瞑想は作用そのものになっている訳だから、思考しているわけではなくて、ただ気づきがあるだけというのか。

で。だ。この深い自己を知る意味ってどこにあるんだっけ?ここを目指す理由はどこにあるんだ。現象学なら基礎学として、現象の原的な事実として生命流とでもいうような作用そのものがあるよー、とかいうこともできるだろうけど、普通の人がこの深い自己知る意味ってあるの?ここまで行かずとも、ノエシスに気づいて思考の暴走を止めて、現実に戻ってくるってところでいいんじゃないの?

ああそうか、瞑想繰り返していると、ひょっとしたら体験的に絶対無(ここは仮にこの言葉にしておこう)に触れることができる人もいるかもしれない。でもさ、それは言語以前のものだから、人によってはとってもスピリチュアルな神秘体験と捉えてしまうのかもしれないな。

そうだ!そういうことなのかもしれない!言語以前の事実であり、それが何をするのかわからないから、私たちの構成された現実とは別の、神秘的な素晴らしい何かとして捉えてしまうのかもしれない。だからマインドフルネスやヨガや瞑想する人にスピ系多いんだよ。そうじゃなくって、深い自己まで降りていって体験できる絶対無は現象の原的(原的ってのは絶対疑えないようなとかそんな意味)な事実ってことであって、神秘でも宗教でもなんでもない。僕らの構成された現実以前に誰にでも起こっている普通の事実でしかないんだ。でも、僕らは構成後の現実しか生きることができないし、絶対無は言語以前であるから、なんだかよくわかんないままここに降りちゃった人は、さもありがたい体験をしたとか思っちゃうんだろうな。でもありがたくもなんともない、神秘でもなんでもない、スピリチュアルなわけがない。絶対無はただの普通の事実。

あれ?なんの話をしてたんだっけ?wwwwww
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恐怖!魔術の祭典がついに開催!

f:id:pukut:20210714235514j:plainキチ○イ祭りまであと数日だ。
いいですか、あと数日でトーキョーには人間の理念が押し寄せることになるんだよ!

ウィルスを押さえ込むためには開催してはいけないという理念、選手の人生を考えれば開催すべきという理念、団体の運営の為には止められないという理念、すべて理念なんだ。人間に備わっている理性(推論の能力)が生み出した抽象的な価値評価なんだ。それらの理念がウィルスに振り回されて、それぞれの妥当性を拠り所にトーキョーに押し寄せてくるんだよ!

これはすごいことだよ!滅多にない機会だ!これはもうサバトだよ。ほぼ魔術!そして祭り自体の性質も、鍛え抜かれた肉体を披露するというものだから、ますますサバト感が強いよね!

たぶんね、今回のオリンピックでは何かが爆誕すると思うよ!理念が集まって肉体のサバトによって、名状しがたき何かが爆誕することとになるんだよ!

だからね、僕たちにできることは、舞踏家のような身体を鍛えている人たちの言動に注目することなんだ。彼らはサバト後の世界の変化も敏感に察知することができるだろうから、彼らの言動に注目して、世界の動向を見つめることにしよう!

いあ!いあ!はすたあ!

シン・エヴァの感想。

f:id:pukut:20210412035603j:plainシン・エヴァンゲリオン2回目鑑賞終了!

岡田斗司夫氏が配信の中でシン・エヴァを卒業式と表現していて、僕もなるほどなぁと感じたから、今回はスーツを着てネクタイを締めて、背筋を伸ばして観てきたよ。


※以下ネタバレあり!


新劇場版を通してみると、真希波・マリ・イラストリアスってキャラがすごかったな。新劇場版で初めて登場したキャラで、旧作に親しんでいる人にとってのマリは異他的なんだ。なんでこのキャラがエヴァ界に割り込んでくるのかわからない。さらに、マリの履歴はあまり深く描かれないの。彼女がどんな人かはぼんやりとしかわかんない。もちろん、設定はいろいろあるだろうけど、あくまで映画の中では、彼女の表面的な個性くらいしか伝わってこない。旧作から引き続いて出てくる登場人物たちについては、僕らは彼らの内面までなんとなく知ってるわけだ。だからまぁ、彼らには親しみがある。彼らのなじみ深さに比べて、マリはまったく異他的な他人なの。でね、面白いのは、このまったく異他的な他者が、まるで救いの女神のように描かれているところなんだ。シンジ君は身内のような旧作の登場人物たちにまみれてしまうのではなくて、成長したシンジ君は異他的なマリに救われるんだ。僕にはここがとても面白く感じたな。

そして、この映画の軸はイマジナリーとリアリティってところかな。新劇場版を通してみると、もちろんSFロボットアニメだから全部イマジナリーではあるんだけど、序や破は、現実世界の上で空想のエヴァ使徒が戦うっていう、現実から掴まれている感じがあった。でもQではこの現実感がほとんどなくなって、イマジナリーの世界で物語が進んでいるようだった。Qは空飛ぶ駆逐艦とか出てくるし、抽象的な場面が多かったりするし、夢の中の出来事のようだった。そしてシン・エヴァの物語はリアリティを取り戻す作業のようだった。第3村では、赤い色に包まれて宙に浮く電車や鉄柱っていうイマジナリーが具現化したような世界の中で、農作業っていう圧倒的にリアリティのある作業をしちゃったりするの。そして、南極にあるセカインドインパクトの爆心地に突っ込んで行くシーンは、イマジナリーとリアリティの源泉に突っ込んでいくように感じられた。それは自己意識の源泉だ。私たちが対象世界と認識している現象が形作られる以前の、イマジナリーとリアリティの出所となっている領域に潜っていくようだった。様々な儀式を通してたどり着いたマイナス宇宙というのは、対象化以前の世界なのだろうな。西田哲学では絶対無といわれ、井筒俊彦が無分節と表現した世界。道元さんは心身脱落っていうだろうし、現象学では受動的綜合とかになるだろう。それは対象化以前に動いている“生命そのもの”という感じだ。その世界は対象化できない世界であるから、シンジ君は自分の記憶を利用して認識する必要があったわけだ。そうしたわけで物語の後半は自己の深い部分に潜っていく感じがした。

そして、シン・エヴァは了解の物語でもあった。私たちが生きている世界の世界らしさってのは、必然ってところにある。私たちの目の前に起こった出来事は起こってしまった以上、どう頑張っても覆らない。目の前に起こる出来事は必然だ。そして、世界は私たちがどんなに“こうあるべき!”と望んでも、必ずしもそうなるとは限らない。ランダムに起こる世界の必然には、どうしたって受け入れがたい了解不能な出来事も起こりうる。ゲンドウにとって、ユイが死んだという必然は、どうしても受け入れがたいことなんだろうな、だから儀式を行って対象世界以前に潜り込んで、ユイを見送ってあげる必要があったんだろうな。受け入れがたい出来事であるほど、決死の覚悟をして自己の深いところまで潜る必要があるのだろうな。最後30分の対話は、絶対無や無分節から世界を捉え直す作業のようだった。

まとめ

序:リアリティの崩壊

破:リアリティとイマジナリーのせめぎ合い

Q:イマジナリーへの没落

シン:リアリティとイマジナリーの源泉に立ち戻っての世界の捉え直し。

世界の捉え直しをやり遂げて戻ってきた先に待っていたのは異他的な他者のマリだった。シンジ君の行き着いた先は、理解不能な他人だったんだ。

だからまぁ、好きな人のことは大切にしようね。ありがとうをして握手をしよう。それが他者と仲良くするためのおまじない。

思考の整理:マインドフルネス瞑想について。

今学んでいることについての思考の整理です。
書き殴っただけだから、推敲はしてないよー。

マインドフルネス瞑想するときって、思考のチェックをして呼吸に戻すでしょ?そのときは、思考の実在にストップをかけて、それは思考作用によって作られたものであることを確認するわけだ。たぶん、ここが難しいところなんだ。「作用によって作られる」ってのは知的には理解できても、瞑想時に体験として理解することはちょっと難しい。だから「心で包み込む」とか「井戸のそこから見上げる感じで」とか、ちょっと抽象的な表現をせざるを得なくなるんだ。ここで現象学的な意識作用についての分析が役に立ちそう。例えば視覚について。“見る”という意識作用を自覚するときには、意志作用を使って、見ているものを一度感覚レベルにまで落としてあげるのね。例えばの僕が“赤い椅子”を見ているとしよう。これを“赤い”とか“ざらざらしている(僕の椅子のクッション部分はざらざらしている)”とか“つるつるしている(プラスチック部分的)”とか、知覚以前の感覚に戻してあげるんだ。でも、僕らには志向性(説明省く)が働いてるから、意志の力で感覚レベルに落としたとしても、その感覚は常に“赤い椅子”という意味(これをノエマという)に収斂してしまうんだ。この“感覚が突破されてノエマに収斂する”という意識の動きが意識作用、つまりノエシスと呼ばれるものなんだね。で、瞑想時に意識作用を使って感覚を把握したとしても、その感覚は常にノエマへと突破されるってことを実感できると、“ああ、僕らの生きている現実は、意識作用の働きによるものなんだなぁ”って実感できるよ。この“諸感覚がノエマへと突破される働き”、つまりノエシス(意識作用)は、視覚だけに留まらず、五感+思考(意)についても言えるんだ。聴覚という意識作用を実感するときには、現象学的な時間概念の分析が役に立つよ。“過去把持ー現印象ー未来予持”のつながりだね。音は実体がないぶん、“今・ここ”から直ぐに過去に過ぎ去って、その過去が現在に保たれて(把持されて)、それが未来に投げかけられるってのがよくわかる。そして、ここにもノエシスは働いていて、感覚レベルの種々の音は、例えば“エアコンの音”だとか、“冷蔵庫の音”だとか、そうしたノエマに収斂している。マインドフルネス瞑想時には、意志作用を使って“今・ここ”の瞬間の音に注意を払うと、それが突破されていく様子を実感できる。そして思考だ。思考も思考作用というノエシスの働きによるものなんだけど、これは感覚が知覚にまとまりという動きとはちょっと違っているね。志向的であることは間違いないんだけど、感覚ではなくて、経験だ。その人の経験が“今・ここ”で回転してい思考に収斂していると表現できそうだね。この“経験”というのは、現象学では“過去地平”って呼ばれるものになるだろう。私たちの現在におとずれる体験は少しの間現在に把持され、時とともに把持された体験は中身が薄くなって、空虚なレリーフとなって過去の中に沈殿していく・・・この空虚なレリーフが際限なく沈んでいく先が、過去の地平(地平って際限ないでしょ?)、つまり、過去地平と呼ばれるんだ。そして、思考というは過去地平に沈んでいる空虚なレリーフたちが生気づいて次々と現在に訪れていることを言うんだね。だから思考は、五感を含んでいるんだよ。その証拠に、例えば“山”って考えると、僕らは大きな山をイメージできるでしょ?それは過去地平に沈んでいる山の意味の枠組みが思考作用によって生気づいて現在に訪れているってことなんだ。ある本の中では「金魚鉢に餌を入れたときに、餌に食いついてくる金魚のイメージ」って書いてあったけど、そんなふうに僕らの現在は(特に思考は)、ノエシスによって作られているんだね。でも、過去地平に沈殿している意味の枠組みが現在に訪れるパターンは人によって違うよね。ある出来事に遭遇しても怒る人もいれば怒らない人もいるわけだから。ここで、ノエシスを動かしている原動力として、評価基準だとかコアビリーフ(信念)とかが出てくるわけだ。こうした原動力は、西田哲学だと“行為的自己”と呼ばれるだろうな。意志を介さずに自動的に動き出す(行為する)基準って感じ。で、この意識以前に動き出す行為的自己については、現象学的には受動的綜合レベルのついての分析が役立ちそう。そして、この自動的に動き出す原理は“対化(カップリング)”って言葉で表現される動きになるだろうな。これは種々の本能的な動きに共通するもので、単純に“充実ー非充実”の連関ってことだ。そして、この先には対象化できないレベルだ。この先になってやっと形而上学っぽくなるんだ。それは、絶対無と呼ばれたり無分節と呼ばれたりするもので、いわば“生命そのもの”のようなものだ。たぶん“勢い”って表現がうまく言い当てれると思う。マインドフルネス瞑想でまず目指すところは、評価基準やコアビリーフのパターンを把握して、自分の現在はそれらに触発されて動き出した、過去地平に沈殿している意味の枠組みによって作られたものだってことを把握するところだろう。そして、行動時に価値崩壊のパターンをとらないように訓練することだ。


以上思考の整理終了!

参考文献:「自己洞察瞑想療法テキスト」「これが現象学だ(谷徹)」「現象学ことはじめ(山口一郎)」「実存と現象学の哲学(山口一郎、放送大学テキスト)」

昔話:搭濡森の曽根吉

曽根吉は井戸の中に落ちてしまいました。その前は人混みが苦手で、お父さんとお母さんに連れられて、大きな道を歩いていました。すると、遠くのほうから提灯に照らされて、瀬田園や御園浦和がやってきました。


「ほうほう。己はお父さんとお母さんに連れられてきたのか」

「ほうほう、これはゆかいじゃ」


瀬田園と御園浦和はこのように曽根吉を罵りました。罵られた曽根吉は、真っ赤な顔になって怒りだしました。


大きな道は小さな道になり、人も多くなります。お父さんとお母さんは曽根吉を守るため、曽根吉の前のほうと後ろのほうに陣取ります。


「曽根吉、人はいないから大丈夫だぞ!」

「曽根吉、人なんていないわ!」


そう言われた曽根吉は、「両親なんていなければいいのに」と思い、十濡山のすそ野に向かいます。しかし、お父さんとお母さんに止められて、十濡山のすそ野には行けませんでした。


曽根吉の両親は、曽根吉の人混み嫌いをどうにか回復させるため、十濡山のすそ野にある、尾曾塗様にお願いすることにしました。


尾曾塗様というのは、人間ではありません。小さい頃は小学校に通っていましたが、二回の戦役が終わると故郷に戻り、嫌な人たちと縁を切ってしまいました。そうしたことにより、尾曾塗様は一時期“尾曾塗”と呼び捨てにされていましたが、そのことにより人混みが苦手になり、小さな道を通ることができなくなったのです。小さな道を通ることができなくなった尾曾塗は、辛抱を重ねて大きな道を通ることができるようになりました。このことから、尾曾塗は“大きな道の尾曾塗”と呼ばれるようになり、やがては“尾曾塗様”と呼ばれるようになったのでした。


翌日、曽根吉は両親に連れられ、十満山のすそ野に連れていかれました。その途中、瀬田園と御園浦和に出会いましたが、二人は死体のように冷たくなっていたので、もう罵られるようなことはありません。曽根吉は、「これはゆかいじゃ、これはゆかいじゃ、これはゆかいじゃ」と言いました。


尾曾塗様のところにやってくると、両親は尾曾塗様に深々と頭を下げ、曽根吉の人混み嫌いを治す方法を尋ねました。すると尾曾塗様は、「そんなものは簡単じゃ。南の山に住むという如上腿の駆け須美を失敬してこい。そうすれば人混み嫌いは治るであろう」と言い出しました。これを聞いた両親は大喜び。慌てて曽根吉に旅支度をさせ、南の山に向かわせました。


しかし、曽根吉は如上腿というものがどんなものか知りません。曽根吉は南の山に向かいながら、道行く人に尋ねました。まずは旅の商人に尋ねます。


「もし、商人や、お前は如上腿というものを知らぬか」

「へへえい、曽根吉様。それは大変美しいものでございます。この世に二人といない、絶世の美女なのです」

“はて?如上腿とは人の名前だったか。それも女性とはいかん”


どうやら如上腿は女性の名前だったのです。ですが、女性というだけではいけません。曽根吉は、次に出会ったお侍にも尋ねます。


「もし、お侍や、お前は如上腿という女性を知らぬか」

「へへえい、曽根吉様。それは女性ではありません。それは古狸の化けた姿です」

“これはうっかりするところだった。商人は古狸の化けた姿に騙されたのだな。如上腿とは古理だったのだ。だがしかし、古狸もたくさんいます。曽根吉は次に出会ったお殿様にも尋ねます。


「もし、お殿様や、お前は如丈腿という古狸を知らぬか」

「へへえい、曽根吉様。如上腿とは古狸にあらず、それは古狸に化けた古狐なのですぞ」

“なんとややこしい。如上腿とは古狸に化けた古狐のことだったのか”


しかし、古狐のほうが古狸より生息数が多いといわれているので、どのような古狐が如上腿なのかわかりません。曽根吉は次に出会った学者様に尋ねました。


「申し訳ありませぬ、学者様。私は如上腿というものを探している愚か者でございます。道行く人に尋ねましたが、如上腿は女性であり、女性に化けた古狸であり、古狸に化けた古狐と言われてしまい、とんと見当がつきませぬ。どうか愚かで何もできない私に、如上腿がどのようなものか教えてはくださらぬか」

「なんと向学心のある少年か。如上腿のことを知りたいという少年がいるということが、どれだけ国とためになろうか。次の大戦で兵士を突き殺すことができるであろう」


学者様はそういうと、曽根吉を自宅に招き、如上腿のことを教えました。すると、曽根吉は如上腿がどういうものか見当がつき、南の山に住む如上腿のもとにたどり着くことができました。学者様の教えにより素直になった曽根吉は、如上腿に素直に駆け須美を欲しいと告げました。すると、如上腿は言います。


「そぬんちはこのん後におよんんでいまだにぃ駆け須美がほしいとおおもおおうすのか。そおぬればそれんは愚かしい。そおおうもそおおんもおお己は、人混み嫌いいをなおオンすのが目的んではなかろうか。なんんにんんの人に出会っああったんか」


如上腿のこのような発言を聞き、曽根吉は、はっと気が付きます。


「そうだ、おり(※曽根吉は愚かなので、自分のことを“俺”はなく“おり”と言う)はすでにいろんな人に出会ったのだ。なかには嫌な商人もいた。嫌なお侍もいた。嫌なお殿様もいた。嫌な学者様もいた。もうすでにおり(※曽根吉は愚かなので、自分のことを“俺”はなく“おり”と言う)は人混みも大丈夫のだ」


そうした気づきを得ると、曽根吉は小さいほうへ小さいほうへ進んでいきました。


「おお。ここがおり(※曽根吉は愚かなので、自分のことを“俺”はなく“おり”と言う)の場所だ!」


そう叫ぶと曽根吉は井戸の中へと落ちていったのでした。


両親は少し嫌な気分になりましたが、仕方ないと受け入れ、老衰しました。


これが搭濡森の曽根吉のお話です。

頭の整理:規範と自己について。

今日は相方といろいろ話した。そのやりとりはとても大切で、いくつも気づきがあった。


それは、<作るもの-作られたもの>の違いとして言い当てることができるだろう(この辺の表現は西田哲学の表現と被ってくる)。


 


私たちは<作られたもの>の中で生きざるを得ない。それは、習慣性や歴史性の中で作られた常識の世界で、いわゆる社会のことだ。私たちの所属する文化には、例えば男は男らしくだとか、女は女らしくだとか、どんなふうに成長してどんなふうに最期を迎えるのが幸せなのかだとか、いくつもの基準がある。そして僕たちはそれらを、まるで最初から実在するものとして教え込まれる。それは、常識性とともに、倫理観や道徳観として、私たちの言動を規制する規範となっているだろう。


 


そして、多くの人は成長していく中で、こうした<作られたもの>としての社会に対して疑問を抱く。なぜなら、<作られたもの>としての規範は、私自身が“こうしたい”という思いと反する場合があるからだ。いや、むしろ、<作られたもの>としての規範は、私の欲望を抑えるものとして機能していると言えるだろう。みんながみんな欲望のままに生きていては、争いが絶えなくなってしまうからだ。


 


では、私自身が思う“こうしたい”という思いはどこからくるのだろうか?幼児期の頃の“こうしたい”と、青年期の“こうしたい”は質が違っているだろう。幼児期の頃の“こうしたい”は、私と世界が一体になった中での“こうしたい”だ。お腹が空いたら食べる、眠いから寝る、気に食わないから喧嘩をする・・・。私の欲望と世界は一体になっており、世界は私の欲望を満たすように動くことを期待する・・・これが幼児期の“こうしたい”といえるだろう。これに対して、青年期の“こうしたい”は少し違う。青年期の“こうしたい”は“私はこう感じてこう考える、だからこうしたい”といった、対象化された自己像に対する“こうしたい”だ。青年期に人は、何が本当の自分か疑問に思い、自分探しに力を注ぐ。それは、私は何を感じ、何を考えているのか、その主体である“私”自身を対象化する作業と言えるだろう。そして、自己に対する対象化がある程度完了すると、人は<作られたもの>としての自己を獲得することができ、それに従って生きることができるだろう。こうして人は社会に出て、生活をして、大人になっていくのだと言える。


 


青年期を経てからの生活は、<作られたもの>としての規範と<作られたもの>としての自己との間の相克だと言えるだろう。両者のせめぎ合いのダイナミズムが、人が社会の中を生きていく生々しさとなっていくだろう。<作られたもの>としての規範があまりに強すぎると、人は自分の欲望を叶えることができず、自分の人生を生きている感じがしないだろう。逆に、<作られたもの>としての自己があまりに強すぎると、その人はエゴイストとなり、社会から排除されるだろう。


 


人が<作られたもの>としての対象論理の内側に捉えられているならば、そこには常に、どちらかがどちらかを脅かすという戦争状態が発生してしまう。


 


では、そもそものところに立ち返ろう。<作られたもの>はなぜ作られたのか?<作られたもの>としての規範を作り出したのは人である。そして人は<作られたもの>としての自己を成長の過程で手に入れる。<作られたもの>としての自己は、その人の欲望を実現するところから始まっている。欲望を実現する過程で、人は<作られたもの>としての自己を手に入れ、その上で<作られたもの>としての規範を作り出したわけだ。つまり、<作られたもの>の根っこには、<作るもの>として、見る、聞く、触れるといった直接的な現実があったはずだ。


 


<作られたもの>としての規範や自己は、一方は社会から、一方は自分自身から、“あなたはこうすべき”といった要請を投げつけてくる。問題は、この要請が強すぎて、直接的な現実が隠されてしまうという事態である。おそらく、生きづらさだとか精神病だとか、多くの心の問題の根っこはここにある。<作られたもの>によって<作るもの>としての直接的な現実が隠されてしまうということが問題なのだ。


 


では、<作られたもの>としての規範や自己が現実から遊離しないように、<作るもの>として直接的現実を生きるにはどうすればいいのだろうか?おそらく、そこで肝になるのは“価値”である。その人にとって実現させたい人生価値を大切にするということである。人生価値は様々だろう。仕事、趣味、家庭、様々だろう。人生価値を軸にしながら、習慣性やエゴイズムに陥らないように生きていくことが<作るもの>として生きるということだろう。

突風。

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この1ヶ月は感情が突風のように吹き抜けていった。

というのも、相方が妊娠したんだ。
お互い四十越えてるから子供に執着しすぎないようにしつつも、なんとか御子に出会える可能性が生まれた。

限りない嬉しさを感じたし、それとともに不安も感じた。
心拍が聞こえた時は嬉しかった。
そして夫向けの妊娠についての本とか買って読み込んだ。

4月2日は本当に素晴らしい日だった。相方と公園で桜を眺めたんだ。コロナの真っ只中だから通り過ぎるくらいだったけど、素敵な桜だった。その足で母子手帳をもらいに行った。嬉しかった。平和で穏やかで、幸福感に満ち溢れていた。

結果として御子は僕らから去っていった。
でも、こんな経験ができるなんて思わなかった。わずかな間だけど、未来が一気に開けて、満たされた感覚を味わうことができた。自分を支えている価値観が一気に変わった。もう、これだけで僕は相方と御子に感謝したい。多分、御子はこの経験をさせてくれるために、一瞬だけど此の世に現れてくれたんだろうな。本当にありがとう。