マインドフルネスメモ

【メモ】
だからさ、マインドフルネスでやっていることはノエシスをトレースするってことだよ。通常ノエシスノエマと一体になっていて、還元して仕組みを緩めてあげないと意識されないことなんだけど、マインドフルネスは呼吸に集中してDMNが暴走しやすい状態を作ってあげて、暴走した瞬間にそのノエシスを捕まえる訓練をするわけだ。そして直接的現実に戻ってくる訓練をすることで前頭前野が鍛えられて、思考に気づいて止めることができるようになるわけだ。で、これだけじゃダメで、日常生活の中でもこうした気づきができるようになるため、行動時の自己洞察ってやつが大切になるんだろうな。その時のキーが「人生価値」ってことで、人生価値を崩壊させる行動ってことに気づけたら直ちに抑制して価値実現的な行動に切り替えるってことが実践的だし、これこそが当為だ。

で、なんだっけ。そうそう、ノエシス。マインドフルネスはノエシスに気づく訓練とも表現できそうだって話だ。そして、自他未分とか絶対無とは場としての自己とかそういうのってのは、ノエシスそのものを体感していると言えるのかもしれないな。観察瞑想は作用そのものになっている訳だから、思考しているわけではなくて、ただ気づきがあるだけというのか。

で。だ。この深い自己を知る意味ってどこにあるんだっけ?ここを目指す理由はどこにあるんだ。現象学なら基礎学として、現象の原的な事実として生命流とでもいうような作用そのものがあるよー、とかいうこともできるだろうけど、普通の人がこの深い自己知る意味ってあるの?ここまで行かずとも、ノエシスに気づいて思考の暴走を止めて、現実に戻ってくるってところでいいんじゃないの?

ああそうか、瞑想繰り返していると、ひょっとしたら体験的に絶対無(ここは仮にこの言葉にしておこう)に触れることができる人もいるかもしれない。でもさ、それは言語以前のものだから、人によってはとってもスピリチュアルな神秘体験と捉えてしまうのかもしれないな。

そうだ!そういうことなのかもしれない!言語以前の事実であり、それが何をするのかわからないから、私たちの構成された現実とは別の、神秘的な素晴らしい何かとして捉えてしまうのかもしれない。だからマインドフルネスやヨガや瞑想する人にスピ系多いんだよ。そうじゃなくって、深い自己まで降りていって体験できる絶対無は現象の原的(原的ってのは絶対疑えないようなとかそんな意味)な事実ってことであって、神秘でも宗教でもなんでもない。僕らの構成された現実以前に誰にでも起こっている普通の事実でしかないんだ。でも、僕らは構成後の現実しか生きることができないし、絶対無は言語以前であるから、なんだかよくわかんないままここに降りちゃった人は、さもありがたい体験をしたとか思っちゃうんだろうな。でもありがたくもなんともない、神秘でもなんでもない、スピリチュアルなわけがない。絶対無はただの普通の事実。

あれ?なんの話をしてたんだっけ?wwwwww
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