スカイリム「死の体験」について。

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・・・僕はね、これまでウェアウルフとして心臓をたくさん食べてきたんだ。perkもすべて最大にした。でも、同胞団のじいちゃんは「ウェアウルフはいかがなものか?」とか言うし、仲間も「俺ウェアウルフやめる!」とか言い出したから、僕もウェアウルフはやめたんだ。

そんな僕がナミラ信者のエオラと出会ってしまった!

もちろん、人それぞれの生き方は尊重すべきだとは思うよ。まして、レイシズムがバリバリ存在しているスカイリム地方では、お互いの生き方の多様性を認めてあげることは大切なことだと思う。だから僕は、エオラに偏ったところがあったとしても、それはそれとして認めてあげて、とりあえず洞窟に巣くっていたドラウグルを一掃してあげた。エオラは、「後はナミラがやるから」みたいなことを言ってたから、聖堂の人を洞窟に連れて行くお手伝いもしてあげたんだ。

でも、まさか自分がナミラ信者たちとおなじ行動を取らされることになるなんて!!

・・・後から調べてわかったんだけど、ナミラ自身は自分の信者たちに、別にエオラたちのような行動を勧めている訳ではないようだね。そうではなくて、ナミラは、社会に受け入れられないようなアンチな在り方も認めてくれるデイドラみたいなんだ(Twitter調べだから間接的な情報だけど)。その意味ではとても理解できるし、必要なデイドラなんだと思う。でも、ナミラ信者であるエオラが僕に求めてきたのは“食人”なんだ・・・。

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僕はすでにウェアウルフとしてたくさんの心臓を食べてきた。だから、すでに同類といえば同類なのかもしれない。でも、その行動の動機は、彼らと同じとはいえないと思う。

なぜなら、これまでの僕は、目の前に立ちはだかる者の心臓のみを食べてきた。意味がないわけじゃない。たぶん彼らが僕の前に立ちはだからなければ、僕は彼らの心臓を食べはしなかっただろう。だがしかし彼らは現れた。そして僕は倒した。だから僕は心臓を食べた。なぜなら僕はウェアウルフだったから。

でも、“ウェアウルフだから”というだけでは、動機として不十分かもしれないな。なぜなら、ウェアウルフであっても、倒した者の心臓を食べずに済ますことはできたからだ。そうなると、心臓を食べ続けてきた僕の動機はいったいどこにあったのだろう?

それはたぶん、“成長したいから”だろうな。心臓を食べて成長して、ウェアウルフとしての能力がどこまで上がるかを見たかったからだ。だから僕はperkが最大になるまで心臓を食べ続けたんだ。しかしそれは、僕の前に立ちはだかる者が現れた場合に限ってだけど・・・。

だがしかし!!
ナミラ信者たちの動機はなんだ!!
彼らはただ!!
彼らはただ、“人肉を食べたい”という自分の欲求を満たすために行動しているだけじゃないか!!!!

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百歩譲って、好きな人の腕や目玉や脳を食べたいのならまだわかる。そこには(偏ってはいるけど)意味があるからだ。でも、彼らはただ食べたいから食べてるだけじゃあないか!!!!

そして、この欲求を認めてくれるデイドラとして、彼らはナミラを信仰しているようだ。・・・これじゃあ単に自分の欲求を合理化するために信仰しているだけだ・・・同胞団の連中とは行為に対する動機の格が違う・・・。

そうだ、同胞団のじいちゃんは「ウェアウルフはいかがなものか?」とか言っていて、仲間も「俺ウェアウルフやめる!」と言いだしてやめていったんだ。きっと、彼らの中にどんなに合理的な動機があったとしても、人の心臓を食べるという行為を府に落とすというのは難しかったんだろうな。だから僕も、先人たちの思いを受け取って、自分の了見を見つめ直して、ウェアウルフをやめることにしたんだ。

そんな僕が今!
ウェアウルフのときとはまったく格の違う動機のために食人を行えと言われている!!
こんな馬鹿げたことがあってたまるか!!!!

・・・だがしかしこれはゲームだ・・・。ゲームであるということは、何度だってやり直しができる・・・そしてこれは「死の体験」というデイドラクエストであるので、クリアすれば役だつデイドラアーティファクトがもらえるかもしれない・・・。

ということで僕は、とりあえず目の前に横になっている聖堂の人を食べてみた。ゲームだから味はわからなかったけど、きっと血とか肉の味がしたんじゃないかな?でも大切なのはそこじゃない。そのあとの気分だ。僕はゲーム内で人を食べたあと、なんだか嫌な気分になってしまった。悪いことをしたような、自分の履歴を否定したような、そんな気分になってしまったんだ・・・。

・・・。

僕は海外ドラマの「ウエストワールド」が好きだ。ネタバレは避けたいので詳細は書かないけど、僕はこのドラマを見て、次のような主題を受け取った。それは、“人は、どんな行為も認められている状況で、どんな行為を選択するだろうか?”というものだ。

行為には責任がつきまとう。そしてその責任の多くは、他者からの視線によるものであるだろう。簡単に言うと、「僕は人を殺すと社会で生きづらくなる。だから、なるべく人を殺さないようにして生きている」といった感じだ。

だがしかし、こうした自分の行動を規定する他者からの視線が薄くなったとき、自分の行動の責任はほとんど自分のものとなってしまう。人を殺すのも助けるのも、どの選択も自分のものだ。まさにその人の人間性そのものがさらけ出される限界状況が、ドラマ「ウエストワールド」の世界にはあるんだ(もちろんこれは僕の受け取り方でしかないかもしれないけど)。

この主題は、なにも珍しいものではない。戦争映画などではよく出くわす主題だと思う。「ウエストワールド」は、SF設定の中でこの主題がうまく表現されていたから、僕はおもしろく感じたんだ。

そして、今僕はスカイリムの中で、まさしくこの「ウエストワールド」の主題と似たような状況に置かれてしまったようだ。

僕は“どんな行為も認められている”という状況に甘んじて、聖堂の人を食べてしまった。そして僕は、悪いことをしたような、自分の履歴を否定したような、嫌な気分になってしまったんだ。僕は僕の中にある良心の呼び声を無視した結果、まるで自分で自分の在り方に対する責任を放棄してしまったような、そんな不全感を味わうことになってしまったんだ!!

・・・だがしかし、これはゲームだ・・・ゲームであるということは、何度だってやり直しができる・・・ああよかった・・・。

僕は自分の在り方に対する責任を引き受け、自分の履歴を救ってあげるために、食人の一歩手前に戻り、ナミラ信者たちを一掃してみることにします。

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はたして、僕のドヴァキンは救われるのだろうか?