『レディ・プレイヤー1』の感想。

先日、『レディ・プレイヤー1』を観てきたんだけど、もやもやが止まらない。

観てる最中も観終わってからも、もやもやもやもやもやもやもやもやして、ネットでこの映画の評判を調べたら妙に評価が高かったりもして、ますますもやもやもやもやもやもやしてしまった・・・っていうか今もしているw

まずね。
僕はこの映画をSF映画として観ようとしたところからダメだったんだ。“人々は現実に絶望したから仮想現実に逃げ込んだ”っていう設定なんだけど、映画で描かれている仮想現実はなんだか貧弱なのね。PSVRみたいなグラスで仮想現実の中に入るんだ。視覚だけでは代替現実にはなりそうもない。途中から仮想現実での体験が身体にフィードバックされるスーツみたいなのが出てくるんだけど、それは金持ってる人たちのもののようで、貧困層は視覚のみで仮想現実を体験しているみたいだ。知覚全部で仮想現実に入っていけるなら代替現実にもなれるだろうけど・・・。そして、この仮想現実界で人々がなにをするかというと、ゲームをするのね。

どうもこの映画で表現しているのは“仮想現実に逃げ込んでいる人間”ではなくて、“ゲームにハマっている人間”のようだ。現実経験の曖昧さとかはどうでもいいみたい。っていうか、そこは主題にも昇ってこないみたい。





仮想現実が出てくることは出てくるけど、この映画で描きたいのは単に“ネトゲにハマっている人々”ってだけのようだね。そんなに仮想現実である意味合いはないみたい。まずこの辺の設定の雑さにげんなりしてしまった。

でね。
この映画最大のウリは、劇中にさまざまなサブカルポップカルチャーのネタが仕込まれているってところ。「AKIRA」、「ガンダム」、「シャイニング」、「ゴジラ」などなど、同じみのネタが出てきます。ATARIのゲームネタも出てくる。でね、なんとも言えないのが、こうしたネタの取り扱い方なんだ。

AKIRA」って、初めて観たときにびっくりしなかったかい?目に見えない超能力と復興後の都市に集結していくパワーのようなものがうまく隠喩として賭合わさっていて、心を揺さぶられたものだ。

ガンダム」を初めて観たときにびっくりしなかったかい?子供向けのロボアニメかと思ったら、戦争や人間の理不尽さが描かれていたりして、何ともいえない気分になったものだ。

「シャイニング」って、初めて観たときにびっくりしなかったかい?シンメトリックな映像美と、アルコール問題とも取れる表現には驚いた。何度も何度も見直したものだ。

ゴジラ」は日本人のトラウマをえぐる作品だ。

そうなんだ。劇中のネタにされている作品たちは、なんらかのかたちで創造的であって、これまでの王道的な表現に一太刀浴びせるような力強さを持っていたはずなんだ。

でも、映画の中では、これらの作品たちが単なる商品として扱われてしまっている(ように感じられた)。“AKIRAのバイクはクール”、“ガンダムはかっこいい”、“シャイニングは怖い”、“ゴジラはかっこいい”って感じで、元の作品が持っていた力強さなんて根こそぎ削ぎ落とされてしまっている。

まぁ、そういう映画だから、鑑賞するときはお酒をたくさん飲んでバカになる必要があります。細かいことは気にせず、怪獣大進撃を観ているときのような心持ちになることが大切です。

視点を変えれば楽しめる映画であることは確かではあるけど、この映画の小狡いところは、ネタにされてる作品たちを愛があるように扱っているというところ。つまり、映画を観た人たちが批判できないような仕方で描いているってところなんだ。僕はここが不快で不快で仕方なかった。単純に、“大人ってずるい”と思ってしまった。

もし、この映画そのものに、映画の中でネタにされてる作品たちが持っているような創造的な力強さがあれば僕の感じ方も違っていたかもしれない。ネタ作品を利用しながら、さらに王道的表現に一太刀浴びせるような映画であったなら僕は好きになっていたと思う。でも、この映画にはそうした創造性がほとんどないんだ。優等生的なストーリーで最後まで進むし。で、さらに不快なのは、この映画では“現実は現実であって仮想現実は現実ではない。仮想現実よりも現実のほうが大切”という価値観がねじ込まれているってところ。うーん・・・うーん・・・なんだか20~30年くらい昔の映画を観ているような気分になったw

なので、この映画は良い映画です。
倫理的・道徳的に正しい映画です。

ただ僕は、大人たちにうまく言いくるめられてるような感覚がしてたまらなく嫌だった。
大人怖い。こんな映画作られたら文句言えないものな。

たぶん、サブカルたちには、この映画に包摂されないような力強さがあるはずだ。その力強さはこんなにお行儀良いものではないと思う。創造の可能性は、非レディプレの中にあるのかも。