世界が“にゅお”と。

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路上に。
蒙古タンメンが在るのだ。

そして。
その向こうには、愛機であるスマートが在るのだ。

路上が在り、蒙古タンメンが在り、スマートが在るのだ。

そしてそれらの“在る”はメガネなのだ。


なぜならば、僕はメガネをかけているのです。
路上に出会う前に、蒙古タンメンに出会う前に、スマートに出会う前に、僕は既に“メガネのレンズ”という「不動の在る」に出会ってしまっているのです。なぜ、“メガネのレンズ”が「不動の在る」なのかというと、僕は視力が悪いので、メガネのレンズを通さないと世界が現象しないからです。メガネなしでも確かに世界は現象します。だがしかし、それは了解不能な独我の世界だ。メガネなしで現象する世界というものは、(僕は視力が悪いから)境界があやふやでぼやけていて、“ふわー”として“にゅお”としている。この“にゅお”とした世界というものは、まったくもって自分だけの世界であり、僕がいきなり他人に向かって「ああ。あそこには黒くって丸くってそわわわわーっとした物体(スマートのことw)があって、その物体はぐねぐねしていてうまそう」と見えるがままの世界を伝えたとしたら、僕はたちまち善意の治療者たちとかの暖かい訪問を受けて、入院させられてしまうでしょう。

なので、僕たちに共通する印象を現出させ、日常性というシェアードワールド(共有化された世界)を現象させるためには、どうしても“場”が必要なのです。私という交換不可能な絶対的独我の主観と、汝というおなじく交換不可能な絶対的異他である世界が出会われるためには、そのための“場”というものが必要なんです。そして、私と他者が出会われ、シェアードワールドが現象する“場”がメガネのレンズなのです。このメガネのレンズとは、決して客観的なメガネのレンズを意味しません。このメガネのレンズは相互浸透的で、自他未分なレンズなのです。なぜならば、メガネによって現象する世界というものも、それが“私にとっての疑えなさ”という意味では、徹頭徹尾“私のもの”です。だがしかし、そこに付与されている意味というものは、私以外の世界の中で既に了解されている共通のルールの世界での意味のことです。たとえば、メガネによって現象するスマートに付与されている意味は「小さくて個性的で未来っぽいベンツの車」っていう共通の世界で了解されている意味です。ですので、この出会われるメガネという“場”は、私にとっての現象だけども、それは世界によって既に侵されている現象だ、と表現できるでしょう。その意味で、メガネは私と汝が出会われる相互浸透の“場”なのです。


・・・。


さて、僕は9月から、バーチャルな世界で働きます。
それはEAPという種類の職場で、メンタルヘルスのサポートやカウンセリングが業務になります。
その業務は、“社会的日常性”という世界の内で既に出来上がっている共通のルールの世界で行われます。

これまでの反省から明晰判明に理解できるように、共通のルールの世界というものは、私と汝の“あいだ”に作られたものに過ぎません。
単なる流行(モード)の世界だ。
単に利用者の多い世界像にすぎないのだ。

それはメガネの向こう側の世界であるのだけど、僕の役割はメガネの手前にあるこちら側の世界に気づいてしまった人たちの支援になるだろうな。。。

・・・あー・・・あれだ・・・よく考えたらこのメガネ、度があってないんだよなー・・・w

なんかレンズに傷がついてたりするし、なんかよく見えないwww

メガネ買い換えないとw