作られる人間。

鳥のように空を飛ぼうとする人間だから「“鳥”人間」。

客観的判断と社会的理性で人間的にふるまおうとする人間なら「“人間”人間」。

こうした客観的判断と社会的理性から免れようとする人間なら「“ダメ”人間」。

僕は「“ダメ”人間」でありたいけどダメであることはけっこう大変。




で。




Facebookおもろい。
気づかされることがたくさんある。
それは、判断と態度についてだ。

たぶん、投稿内容については変に社交辞令的に振る舞う必要は無いだろう。もし社会辞令的ふるまのなら、ネットの世界までリアルの延長になっちゃってつまらない。そんなつまらない判断をネットの世界でするのは本当につまらないしくだらないし、そんなんはリアルの世界で勝手にやっててもらいたい。
でも、ネットの中をまったくの別キャラでやるのもなんだか違うと思う。リアルと乖離しちゃったらしっちゃかめっちゃかになっちゃうだろうし。(この意味で映画「ヘルタースケルター」は面白かったな^^)

ってことは、「リアルの自分とネットの自分との自己一致」っつーのが課題になるのかもしれないな。

ここまでが判断について。

次は態度だけど、一昔前の表現でいえば、やっぱネチケットみたいなものは必要だろうな。っつーか、お互いに人間と人間が会話をしているわけだから、自分だけの信念に従ってばかりいたら喧嘩になっちゃうし。そうしたわけで、あらゆる今に遍在でき、社会的規定によるコミュニケーションの垣根を下げてくれるという意味でのFacebookは必要である。だがしかし、そこには人間対人間のお付き合い伴う礼儀作法は絶対必要。そうした意味での態度は求められる。

結論。
1・判断はリアルよりも自由。
2・態度はリアルと同じく柔軟に。




で。




こっから先は根拠が薄弱な自分の意見なってくるんだけど、この結論が成立するためには、どうしても「自分で考える」ってことが必要になってくると思うんだ。「自分で考える」っていうのは、「“人間”人間」たちのように客観的判断や社会的理性といって既に在る背景的な価値評価に従って行動するといことではなくて、そうした背景的な価値評価は一旦カッコに入れちゃって、それらを規定している直接的な現実はどこにあるのか吟味する思考的態度ってことです。

たとえば、某国ではネットの世界で生活することで日常での健康的な生活が阻害されちゃうという事態が起こっているらしい。先日、実家で葬式があったとき、慣例に盲目的に従ってことが進んでいったんで、僕には個よりも集団を大切にす「冷たい社会」的な不全さを感じました。で。某国でのネット依存問題にしても、田舎の「冷たい社会」の感じにしても、「背景から距離を取って吟味する」っていう「自分で考える」って態度が抜け落ちているように思えるんだ。

・・・「出来事から距離を取って吟味する」っていったら悟性ゆえんの能力であり、その流れで進と、「近代的自我に芽生えた人間こそが健康的な人間だ」なんつー結論につながって、「“人間”人間」が誕生しちゃう。。。

・・・あー・・・それはちょっと違うな。絶対違う。「“人間”人間」は頭の堅い老人だもん。クリエイティビティないもん。つまんないもん・・・どこがちがうんだ?・・・話しの過程なにかが足りないんだろうな・・・。


・・・まぁいいやwww。

で。この「自分で考える」って態度はどうしたら身につけられるのだろう?といろいろ考えたんだけど、ひょっとしたらこれって、ある程度センスなのかもしれない。背景と距離をとるセンスっていうのかな。だって、どうしても背景を吟味できな人たちいるもん。

まぁいいや。
なんかまとまんないしw
ねむいしw