忘れまじや若き日の“例のアレ”的な例のアレを。

アレっつったら、やっぱりアレだと思います。。。

“夢”とか“希望”とか“大志”とか、そういう類の“例のアレ”です。

なんつーか、10年後の自己像を思い描いて恍惚感に浸っちゃうような、そうした感じの“例のアレ”。


小さい頃、学校でやるお誕生会とかでは、必ず将来の夢を聞かれました。

でも、なりたいものなんて、特別ないんです。
小学校高学年になっても、なりたいものなんてなくって、いつもお誕生会では「僕は将来なんにもなりたくありません!!」って答えてましたw

中学校になると、自分の将来のことは早いうちに決めたほうが良いみたいなことを先生から言われて、絶対になりそうにないカメラマンとかを将来なりたい職業としてあげていました。

・・・先生も困った顔をしていましたw。。。

で、困ったことに、大学卒業するころになっても、なりたい職業がありません(爆)
なりたい職業がないので、職には就かず、バイトをすることになりました。

で、バイトを一年間しても、なんにもしたいことが見つからないんで、部屋でじっとすることにしました(約二年w)。

部屋でじっとしてたら、“はて、この世はどうなってるのか?”と疑問を抱くようになりました。
社会とか文化とか日常性とか常識性とか、僕たちにとって世界がどのように現象し、成り立っているのか、点検してみないとならなくなったんです。
っていうのも、社会に出たら、働いてお金貯めて結婚して子供作って幸福になったり不幸になったりしなきゃならないわけで、そうした“既に在る”世界像のうちに規定されていくのが納得出来なかったんです。
多分、僕が音楽やって、ランダムな意味の群れと戯れることをしていたからだと思います。
そうした未規定的な世界の捉え方に慣れていたから、社会に出て“既に在る”世界像に規定されていくのが、ものすごい無意味な感じがすごいして、いたたまれなくなったんです。
その頃の僕にとって、世界は無駄っていうか、世界は意味がありませんでした。

そうしたわけで、世界どう成り立ってるのか調べなきゃいけなかったんです。

で、心理学やればなんとかなるんだろうと思って、本読んでみても、なんつーか、客観的なことばっかりで、あんまし僕の疑問に答えてくれません。

で、心理学そのものがどう成り立っているかを探るような態度、つまり、もっとナノレベルの現象学の領域を目指さなきゃならなくなりました。
で、現象学やってみたら、結果的にそれは哲学者が業務としてやってることだってのがわかって、現象学的な反省を続けていくと実存構造が取り出せることがわかって、そうすると、“幸福ー不幸”とか“真ー偽”とか“良いー悪い”以前に、世界を意味化していくような世界内存在の話や生活世界のような受動的に綜合している領域が露わになってきて、そのあたりから、精神保健の領域につながってくるわけです。


そんな風に振り返ってみると、僕にとっての“例のアレ”ってのは、“この世とのズレ”になりそうです。
で、このズレってのは、怖いことに社会生活を送っていると、だんだん無くなってきちゃうんです。
だんだん、社会と自分が一体になってきちゃう。
単純に、それって、“歳をとる”ってことなんですが、そうなると、現象学的な反省なんてあんまし意味がなくなって、社会的に“既に在る”世界像を信仰しているほうが楽に感じられてきます。。。まぁ、普通、“既に在る”世界像に祝福されることを幸福とかいうんですが、そうなると、世界は自分にとっての世界じゃなくって、自分が世界にとっての自分になっちゃう。
そうなると、大学卒業後に感じていた、この世に対する虚無感がまた復活してきちゃいます。


なので、“吹けば飛ぶよな男だが”を聞いて思うのは、若き日に感じていたこの世に対する違和感は大切に持ち続けなきゃならないんだろうなぁってことです。