先ゆく賢者。

※注:落語や講談についての話です。

現在には常に不在がつきまとっている。

っていうのも、僕たちは明晰判明に物事を見ることができないんです。明証度を高めることはできるだろうけど、完全に何かを理解することできません。これは、なにか倫理的道徳的な話ではなく、なにかムツカシイ脳科学的な話でもなくて、目の前のすでに与えられている現実についてよく考えると理解できます。

今、僕の目の前にはスマホがあります。僕はスマホの画面を見ています。ちょっと正確に描写してみると、それはスマホというか、長方形のツヤツヤしたものです。ツルツルもしています。そして、画面の中には白い背景とキーボードが表示され、この文章が次々と書き出されていきます。画面のふちにはローズピンクのケースの色が見えます。横にすると、細長いローズピンクの棒のようになります。斜めにするとひし形になって、裏返すと今まで見ていた画面は視界から消えて、透明なケースに覆われた黒いボディが見えてきます。しかし、黒いボディを見ていたとしても、僕はさっきまで見ていたのは前面の画面であるということに疑いを持ちません。長細い棒状の形状やひし形についても、今はそのように見えていなかったとしても、同じスマホの別の姿であるということに僕は疑いを持ちません。そして、僕はスマホを再びくるっと回せば前面のツヤツヤした画面が出てくることを予測しており、この予測も疑いようがありません。つまり、“いま・ここ”にスマホを見ていると思いこんでいるとしても、そこにはちょっと前とちょっと先が微妙に入り込んでいるんです。

そうしたわけで、現在は常に不在と隣り合わせであって、不在に対する確信によって成り立っていると表現できそうです。そして僕はスマホを見ていません。僕の現在に与えられているのは、これまで描写してきたようなツヤツヤした画面や長方形やローズピンクや棒状やひし形や真っ黒な背面などで、これら素材が常に突破されて、スマホという少し高次の意味を構成しているわけです。

つまりスマホ自体は構成された意味であって、素材として理解できる直接的な現実からちょっと距離があるわけです。

よく考えると、僕たちの日常はこうした構成された意味で取り囲まれています。本にしてもコップにしてもパソコンにしても人にしても、それらのものが実体という意味ではなくて、与えられている様々な素材が突破されて構成された意味であるわけです。

では、実体のない、このように構成された意味の最大のものはなんでしょうか?それは、世界だとか宇宙だとか、そうした言葉で言い当てられるものになるでしょうね。おもしろいよね。世界や宇宙なんて実体はないし、構成された意味でしかないのに、僕たちはそれらが確実に在ることに疑いを抱かないんだものね。しかも、僕たちは、世界や宇宙は自分自身とは独立して存在しているから、自分自身がいようがいるまいが、延々と存在し続けるものだと思い込んでしまっています。

昨日のことです。
僕は神田連雀亭に行こうと道を歩いていました。万世橋辺りかなぁ、前のほうから人が歩いてきます。その人は男性でマスクをかけています。鋭い眼光で前方を睨みつけながら歩いてくる彼は、なにやらつぶやいています。

「コロシテクレー!コロシテクレー!コロシテクレー!コロシテクレー!」

彼は甲高い声で早口で、「コロシテクレ」を連呼しながら歩いてきます。

・・・賢者だ・・・彼は賢者以外の何者でもない・・・たいていの賢者は「コロシテクレー!」と叫ぶものだと聞いているし、そうした理由から彼は賢者だ。せっかくだから名付けることにしよう。彼のことは“先ゆく賢者”と名付けることにしよう(“行く”ではない。“行く”ではダメだ。“ゆく”でないと面白味がない。だから彼は“先行く賢者”ではなく“先ゆく賢者”なんだ)。

ここで僕は考えました。
“さて、世界には実体がない。実体がないけど僕は世界が在ることに疑いを持たない。そして世界は僕がいてもいなくても、まったく関係なく平穏無事に運行していくだろう。先ゆく賢者はなんだか苦しそうだ。彼が死んでも世界は続いていくだろうし、誰か殺してあげてもいいんじゃないか?”

“だかしかし、彼が今ここで突然死んだとして、世界は本当に平穏無事に運行して行くのだろうか?世界は意味であり実体がない。この謎を解くために、この実体のない世界を構成している素材にまで還元してみよう”

“世界はいろいろなもので構成されているな。世界にはいくつもの国がある。だがしかし、国も世界と似たようなものであり、構成された意味のようだ。もっと直接なものはなんだろうか?国の中には自然があって自然の中には木々や水がある。土がある。そして人工物がたくさんある。建物や車や自転車た衣類や広告や他者や・・・世界にはいろいろなものがあるけど、果たしてこれらが直接的な現実なのだろうか?いや違うな。“そのように名付けられているものが在るんだ”という了解が無いことにはそもそも世界は成り立たない。ということは世界を構成している直接的な現実は“了解”のようだ。だがこれは誰のなにについての了解だろう?スマホが在るということを例を振り返れば、現在には不在が在るのだった。現在には“ちょっと前”と“ちょっと先”が紛れ込んでいるのだ。そして、その中心が“いま・ここ”ということだろう。ということは、世界の構成の根っ子には“時間的な広がりと中心化の了解”とでも言うようなものがあるだろうな。そして、これらの了解も他者と共有できないことには客観化しない。そうか。そうなると、私による時間化と他者存在に対する了解が世界体験の根本契機のなりそうだ”

“ではここで再び例の思考実験だ。先ゆく賢者が突然死んでも、世界は平穏無事に運行するのか?という思考実験の続きだ。先ゆく賢者が突然死ぬと、彼と繋がりのある人々の生活とその人々の心に影響がでるだろう。その影響力は微々たるものかもしれないが、影響が出てしまうと言うことは、世界がまったくもって完全に平穏無事に運行を続けるとは言い難いな”

“では、先ゆく賢者に関係のある人たち全てを殺してしまうというのはどうだろうか?先ゆく賢者はどうやら四十前後のようだ。彼に関係のある人たちはきっと膨大な数になるだろうな。頑張って先ゆく賢者に関係のある人たちを全て殺してしまえば、彼と世界の関係は断たれてしまうわけだから、きっと世界は平穏無事に運行することとなるだろう。いや、大切なことを忘れていた。すでに僕も彼を知ってしまっているということだ。僕も彼の「コロシテクレー!」という叫びを聴いてしまっている。そしてなにより、僕は彼に“先ゆく賢者”という名前を与えた名付けの親じゃないか。ということは、世界を平穏無事に運行させるためには僕も死ななきゃならないぞ!・・・これは弱った・・・僕は連雀亭で落語を聴く予定だったのに落語が聴けなくなってしまう。そして、世界体験の根本契機はなんだったっけ?そう、時間化と他者存在の了解だった。僕が死ぬということは、“私による時間化と他者存在の了解”が成立しなくなってしまう。ということは世界がなくなってしまう。ダメだ・・・先ゆく賢者を殺してはいけないのだ・・・世界の存続と僕が落語を聴きに行くために、彼は嫌でも生き続けなくてはならないのだ・・・”

こうして、“先ゆく賢者が死んでも世界は平穏無事に運行するのか?”という問題は、平穏無事には運行しないと結論づけられました。彼と世界との縁ができている以上、彼が死ぬと世界は影響を受けるのです。なにより彼が突然死んだらそれを見ていると人が不快になってしまう。ですので、先ゆく賢者がなんで死にたいのかだとか、コロシテクレと叫ぶなんて可哀想だから救ってあげないとだとか、そうした倫理的道徳的な理屈はどうでもいいです。正直そんなもんはしらねーよwだがしかし、彼が死ぬと世界が影響を受けるし、その死を観ている人たちが不快に思うから、彼は死なないほうがいいんです。

さて、私は時間化と他者存在の了解という契機から世界を作り続けています。そして、上記のような反省のように、世界と縁を持ち続け、意味を与え続けています。

連雀亭のワンコイン寄席で落語を聴いた後、池袋演芸場に行きました。一昨日は超満員で爆笑の渦でしたが、昨日は若干ソリッドな空気感が漂っていました。

そして夜は赤城神社でのあかぎ寄席です。
あかぎ寄席のレギュラー公演は今回が最終回です。

演目はこんな感じ^^

神田松之丞『出発』
立川こはる岸柳島
~お仲入り~
雷門音助『花見小僧』
昔昔亭A太郎『死神』

松之丞さんの『出発』って話は、彼の作った新作の講談だった。いやはや、いい話なんだよ。彼の曾祖父さん曾祖母さんたちの出逢いの話で、そのちょっとドラマチックな縁がなければ今ここで講談をすることはなかっただろうって内容なんだ(ネタバレはしてないはず)。

でね、縁って繋がっちゃうんだよ。世界体験の話じゃないけど、僕らは時間化をして他人がいることを了解できているから、そこからどんどん繋がりを作り出して世界を構成することができるわけだ。その繋がりは事実としての因果関係の繋がりであったり、意味としての繋がりでもあるわけ。そして、この意味としての繋がりって現在(“いま・ここ”)の在り方でぜんぜん変わってきちゃうんだよね。もし、現在に満足しているのであれば、そこから展開される縁は気持ちいいものになるだろうな。きっと松之丞さんは現在を生き抜いているんだろうなぁ。だから彼にとっての縁は人を感動させることができたんだろうな。

ああ。僕も現在(“いま・ここ”)を生き抜かないとな。世界が僕に意味を与えてくれるんじゃなくて、僕が世界を作り出しているんだもの。