いない“オハヨウ”。

現前には何があるのか?
もしくは、われわれには何が現前しているのだろうか?

たとえば僕たちが生きてしまっている世界に対して、一旦停止をかけてみます。
社会であったり文化であったり科学であったり歴史であったり、そうした既に出来上がってしまっている意味の総体に対して、一時停止をかけてみて、その出所を探ってみます。

その出所は、因果的な原因としての出所とは言いがたいのですが、どうやら現(いま・ここ)と関係があるようです。

僕の目の前にある現(いま・ここ)には、ぜろ3というスマートフォンがあります。
ぜろ3はガンメタリックな色彩をしていて、そのボディーにはダークブルーのカバーがかけられています。
そのカバーは少し弾力性のあるもので、直接ぜろ3のボディーを触るより柔らかみがあります。

さて、この現について考えてみると、いくつか面白いことがわかります。

僕は、ガンメタリックとダークブルーの色彩の違いを既に知っていなければその違いを言い当てることができません。
同様に、ぜろ3のボディーの硬い感じと、カバーの弾力性のある柔らかな感じとの違いを、既に知っていなければその違いを言い当てることができません。
さらに、このぜろ3がどういう機能を持っていて、何をするための道具なのか知っていなければ、スマートフォンとしてのぜろ3を言い当てることができません。

このようにみると、僕の目の前にあるぜろ3は、僕の中にすでに起こった出来事によって形づくられていることがわかります。

よく考えると、それはぜろ3以外にも当てはまります。

音にしてもにおいにしても皮膚感覚にしても、それがどういうものか、自分の過去の出来事のなかでその違いを把握していないと、そもそも言い当てることが難しくなってしまいます。

そうなると、現前には、何か客観的な実体があって、それを認識しているとは言い難くなります。
つまり、ぜろ3というものが実体として客観的に(自分の意識の外側に)既にあって、既にガンメタリックとダークブルーと硬さと柔らかさを持っているから、僕はそれを理解しているのだ、というより、僕の中にある前提的なそれらにまつわる出来事が、今を形づくっているということです。

現在は、不在の過去によって規定されていると表現できそうであり、不在が現在するということは、“記号”という概念で言い当てられそうです。

記号のひとつの例として、言葉をあげてみます。
赤色という言葉はそのものは、決して赤くありません。
黄色という言葉は黄色くなく、青色という言葉は青くありません。
その言葉に、それぞれの色を投げかけているから、その言葉に色を連想できるといえそうです。

記号としての赤色は赤くなく不在であるけど、僕は赤色を知っているから、現前に不在の赤を投げかけて赤を現在させることができます。

とても乱暴ですが、現在は不在である記号に意味を投げかけることで形づくられているといえそうです。

さて、僕たちは世界を生きています。
その世界の中には他者がいます。
僕はその他者たちが、僕と同じ共通の世界を生きていることを知っています。
たとえば目の前にあるコップについて、それが“飲み物を飲むための道具”であるということを知っています。
その意味自体は実体を持たないのだけど、共通の意味の世界として、そうした意味を投げかけていることをお互いに了解しています。

でも、たまに、こうした共通の意味が紡げなくなってしまうときがあります。
現在は不在の記号に意味を投げかけることで成り立っているのだけど、この意味の投げかけが、自分の世界の内に落ち込んでしまって、共通の意味が紡げなくなってしまうときがあります。

現実がそれぞれの世界によって覆い隠されてしまって、何が現前しているかわからなくなってしまうときがあります。

朝起きて、あいさつをします。
“おはよう”と言葉に出します。
“おはよう”は朝起きてするあいさつなので、それ以上の意味は共通の了解としてはないのですが、たとえば、前の日に喧嘩をしてイライラしているときに“おはよう”という言葉を聞くと“はやく死ね”とか“邪魔だ”とか、まった違う意味を投げかけてしまって、嫌な気分になるときがあります。
こうしたときは、共通の了解の世界を生きているとはいえず、個人的な意味の世界の中から掴みとられた意味が記号に投げかけられて、極めて個人的な世界が現在してしまっているといえます。

たとえば、家族などのとても近しい間柄の中では、おおよそ共通の意味の世界とはまったく違った意味の世界が形づくられていたりします。

・・・で、僕も最近、共通の意味の世界というより、とても個人的な世界に落ち込んでおり、人のあいさつが嫌がらせのように受け取ってしまっていました。

そうしたわけで、朝起きて、僕は誰かにあいさつをするし、あいさつをされるわけですが、現前に現れている“あいさつ像”は、決して共通の意味を持つ“こんにちは”でも“おはよう”でもなく、そこには個人的な意味の世界から紡がれた世界像が投げかけられているわけです。
そうなると、“おはよう”そのものを捉えること自体難しくなり、「いない“オハヨウ”」という、成立しないような表現になります。