人の目が見る。

私たちは世界に投げ込まれています。

私は世界に在る以上、世界と対になっています。
もし、世界と対にならなければ、世界そのものは現象しません。

私と対になる世界は、私自身を見つめ、私自身の行動を規定しようと、私に襲いかかってきます。

しかし、ぼんやりともの思いに耽っていると、世界は私から遠のきます。
反省的な視点に立つと、私を規定する世界の超越的な意味は薄れ、私にとっての世界の意味が露わになります。
その意味は、私が世界を基礎付ける為の大切な意味ではありますが、超越的な意味を欠いているので、何ともいえない不安感を伴います。
それは、形式が薄らぐことに伴う不安感です。


ブログに文章を書くとき、私は反省的な視点をとります。
私は、私自身の世界の内で起こったことを一つ一つ取り上げては吟味し、私にとっての意味を与えていきます。
これはこれで意味のあることだと思うんですが、自分だけの意味に落ち込んでしまうと、自分自身を規定している世界からの視線が薄らいできて、徐々に何ともいえない不安感が出てきます。


“存在の裂け目”・・・って言いたいけど、この言葉はニュアンスがちょっと違うかもw


で、ウェブにログを綴るのは、アノニマス性が高くなるにつれて、自分だけの意味に落ち込んでしまう危険があるのではないでしょうか?
自分のブログを見渡せば、そこかしこに自分にとっての意味を綴った理念の山が見て取れます。

で、自分にとっての意味がその形式性を失って、単にわがままな意味だけの世界に落ち込んでしまうのを避けるためには、私を規定するための他者の視線がどうしても必要になるのでしょう。

・・・私は世界に投げ込まれており、世界と対になることで世界は現象する。。。

そして、私は他者と対になることで他者が現象し、“世界にとっての私”として、“私”が世界に現象します。

そうしたわけで、ブログの内容がぐだぐだにならないためにも、もう少し、僕を規定している社会的な役割(仕事とか)についても書いた方がいいんじゃないかなぁと思いました。

でも、書かないでもいんじゃないかなぁとも思いましたw