時間について。

えーと。
9月1日から今日まで北海道を旅行してきたのだけれど、「どこどこにいってなになにを見てなにを食べた」とかいった客観的な事実の羅列をするのはつまらないからやめます。

気づいたことをいくつか。。。

時間について。
たとえば、友達と風呂にいくときにつて。
女友達のほうがいいかな。
男湯女湯と、お互いに別々のほうに入るわけだから、何時頃風呂をでるとき、こんな会話があると思います。
A「何時頃どこで待ち合わせにする?」、B「そうだね、今日は疲れてるからちょっと長めに入ってゆっくりしたいね。時間はゆったりめにとりたいなぁ。」、A「それなら私も湯上がりにのんびりしたいから、小一時間くらいかなぁ」 B「じゃあ、一時間後くらいに先頭の前でたばこ吸ってるから。」、A「でも、このあとラーメン食べにいくでしょ?この前はぎりぎりにいってスープが切れて食べれなかったから、今回は少し早めにでて、50分後に集合にしない?」、B「じゃあ、18時50分ごろに先頭の前に集合にしよう」

・・・すごく単純なことなんだけど、時間概念が成立するのは、こんな感じだと思います。。。
誰々が何々のために、どのくらい先になにをするのか?、また、現在からどのくらい後にどんな経験があったのか?この「現在からみて何のために」っていう視点がとても大切で、この「私にとっての必要性」からはじめて、客観的な時間概念は成立するのでしょう。上記のAさんとBさんは、「風呂に入ってそのあとラーメンを食べる」という、彼らにとっての必要性から「50分後に先頭の前で」という時間概念が成立しました。

・・・大切なのは、客観的な時間概念は作られたものだ、ということです。最初から客観時間があって、それに規定される形で現在があるのではなく、現在を生きている人たちの必要性から、「現在から先」「現在から後」と時間の感覚が広がっていくということです。

で。

今回の旅で印象的だったのは、今回の旅のツレれが(まぁ、家族なんだけど)、客観時間に特別なこだわり方をするということです。
上記のように、現在からわき上がるかたちで客観時間を利用するのではなくて、「風呂から出るのは何時」「どこどこにいくのは何時」と、こちらから客観時間を指定してあげないと、びっくりするほど不穏になってしまう。。。その不穏は攻撃性に変わって、その指定ができない僕が攻撃の対象になってしまう。。。どこにいってなにをするかって、その都度決めればいいだろうに。。。

なんでだろう。。。


可能性1。
客観時間は、今現在の「私にとっての必要性」から生成されていくものでした。
だがしかし、その生成する過程を他人に任せてしまうということは、ひょっとしたらその人はその人の現在を生きれていないのかもしれない。。。ツレは、過去のある時点から時間が止まっているみたいで、いつもそこから抜け出せない。そして、あり得ないファンタジックな未来を語る。。。ってことは、ツレは現在を生きれてないのだろうか?未だに到来しない未来と、過去の地平に定着されない未来の過去を生きているってことなのだろうか。。。

可能性2。
客観化するっていうのは、現在に起こっている出来事を分類して類型化するっていえそうです。
時間についても同じ感じで、「私にとっての必要性」から生成される時間も、誰にでも了解できる線分上の時間にするというかたちで類型化されます。で。この類型化する能力って、悟性ゆえんのものっていえそう。現在の出来事から距離をとって区別して分類する。。。
ちょっと乱暴だけど、父性の原理って、こうした悟性ゆえんの類型化の能力なのだと思う。父親が、やっていいこととやっていけないことを分けることとか、いけないことをしたときにしかるっていうのは、現在起こっている出来事を分類して「良いー悪い」っていう類型的な価値の体系を作り上げて、その上での判断を下している。。。
ってことは、僕に客観時間を求めてくるということは、父親的な役割を求めているってことなのか?・・・思えば、うちの家庭は父性が薄い。父親の父親は早くに戦死してしまって、おそらく父性のモデルをもっていなかったのだろう、どちらかというと優しい父親だった。逆に死んじゃったばあちゃんは厳しい人だった。こうした家庭の中、客観的な価値の体系の不在がツレの不穏を煽っているのかもしれない。。。

・・・。

こうした客観的な価値の体系って、僕が一番キライなものなんだよなぁwww
なにせ僕は、新型うつの病前性格そのまんまの人間だしw