文学には青年が必要なのだ!キスが少年を浪費しているように!!老人が意味の群れにダイブしているように!!!!

東京パフォーマンスドール。電車に乗って窓の外見ていると街の灯りが見えるわけですが、それぞれの灯りの内側には人間が住んでいるものなのだなぁと思うとそれなりに胸の内側にぐっと来るものがあり、しかもそのひとりひとりの人間には意識が備わっており、ひとりひとりが自分の感覚野に到来している現在に疑えなさををいだいているということは、たとそれが現実に妥当しないような妄想的な現在であろうとも、世界が意識に現象しているという意味合いで驚異的なことであり、僕は山梨出身なので意識は世界に現象せず、世界が意識に現象するのです。ジャスを連れて散歩に出かけて少しくらい遠くに行くとそこには街の明かりはなくなってしまい、そうなると、意識に現象する世界を持つ人間どもがどこにいるのかわからなくなってしまいますがジャスは犬でラブラドールレトリーバーでした。“でした”ということはジャスはもう死んでしまい、ジャスには意識はなく、従ってジャスには世界は現象しないのですが、その死んだジャスが生きているジャスの時にジャスを連れて散歩に行くと人がいないところに行けます。その場所はとてもよいところで、河原の近くです。横です。河原の横であり。前方であり。左右でもあります(だがしかし上下ではない)。その河原のところに行くと灯りが見えないのだけれども蛍だまりがあり、蛍が具合が悪いくらい光っている場所があるので、蛍に世界は現象しているのだろうか。世界が現象するためには、少し前の出来事を少し前の過去として把握して持ち続けておらねばならず、さらにこの把握して持ち続けたものが礼儀正しく記憶の奥底に眠っていてくれなければならず、そこに眠っているものが礼儀正しく現在に到来してくれないとなりませんが蛍に過去把持と過去地平と想起はあるのか。明日は晴れるのか。道端の子供にはスープを差し出すべきか。反戦ソングのインチキ臭さを暴露する勇気が僕らにはあるのか。蛍には世界がない。そうして、ジャスを連れて散歩に行くと人の灯りは見えないのだけれども、山の中腹くらいに灯りが見えて、僕は「ああ。あの中腹には何があるのだろうか。照らすべき何かがあるのだろうか。それとも照らすべき何かはないのだけれども照らしているのだろうか。」と考えるのだけれども、そのとき聴いていた曲は平沢進の「石の庭」です。そして今も「石の庭」を聴いています。無敵の羽です。そして、たぶん僕は中腹にたどり着くことはない。なぜならば僕は山を登らないほうの人間であり、今後とも実家の散歩の途中から見える山に登る予定はないからです。その意味で僕が生きてきて直接その場に訪れて手で触れることができる世界というものは思いのほか狭いのだ。青年には文学が必要だ。少年には比較宗教学が必要だ。老人は過去地平に沈殿している意味の群と戯れています。だがしかし青年であった頃の僕は文学ではありませんでした。SF小説でした。オノセンダイのデッキで未来地平に没入していました。そのときはまだ、未来の地平は過去地平に根拠を持つということを知らなかったのです。そして。文系的SF読みだからそれはどんなハードSFであっても僕にとっては御伽おとぎ話なのだ。電車の窓から見えるわけですが街の灯りには人間どもがいるのだろうけど、そのひとつひとつに直接的に出会い、見て、触れて、その実在性を確認することはできません。ということは、河原の近くであり横であり左右でもある場所から見られたら光景と何一つ変わらないのだ。その実在度は何一つ変わらず、そのほとんどは「~であろう」という確信でしかないのだ。そしてその確信にはどうしようもない前提がありその前提というものは確信に至るだけの根拠であり過去に過ぎ去った出来事ほど把握して持ち続けその先にある過去の地平に沈殿する空虚にうごめく意味の群れのおかげです。僕もいつかあの老人のように過去地平に沈殿する空虚な意味の群よって現在が隠されることになってしまうのだろうか。青年には文学が必要なのです。ああよかった。このように過去に潜って現在彩ることができるということは、僕には世界が現象しているのだ。蛍ではないのだ。世界は意識に現象するのだ。だ。