DAWNERの諸条件。

視点が静止するときがあります。

視点というか、この世に対する態度が静止するときがあります。

態度というか、視点というか、それは、この世に対する礼儀正しさともいえそうです。


礼儀正しさが静止します。


日常を生きているといくつもの礼儀正しさの中で生活せざるを得ません。
その礼儀正しさは、社会的に決められている制度のようなものであったり、挨拶であったり、異常が異常であったり、正常が正常であったり、お花が綺麗であることだし、お空が綺麗なことであるし、友人に悪態をつける根拠でもあります。

だがしかし、こうした礼儀正しさが撤退せざるをえないようなときがあります。

このように表現すると、それはなんだか危機的な状況と捉えられてしまいそうですが、必ずしもそうとは限りません。

もちろん、危機的といえば危機的といえそうなのですが、こうした態度が静止するということは、反省的な視点に引き込まれざるを得ないというか、そうしたことなのです。

普段無反省に使用している礼儀正しさが、あまり上手く機能しなくなるときがあります。

そうしたPhaseに突入すると、異常が異常ではなく、正常が正常ではなく、お花が綺麗とはいえなくなり、空は赤、陸は白く海は黒と勝手に定められてしまうのです。

もちろん、そうである以上それが現実なのですが、それでもそうした静止した現実の中を静止しながら積極的に生きようとすると、静止の中にいくつかの態度が生まれます。

それは、凝視といえるのかもしれない。

それは、観光といえるのかもしれない。

単純に、“良く見ること”といえそうです。

それは、善悪を分断することではないし、白黒はっきりさせることではありません。

そうではない。

この世に価値を与えることではありません。

そうした行為はどちらかというと恣意的な行いといえそうだし、良く見るというより、かってに価値観を作り出すような主義や主張的な態度です。

そうではなく、良く見ることとはただただ直視することです。

こうした観光的な態度は積極的に何も生み出さないから、一見すると無能な行いのように見えるかもしれません。

だがしかし、こうした態度の諸条件が知らぬ間に整ってしまうときがあるのです。



で。


仕事上いくつか考えなければならないことが出てきて、今後の自分の身の振り方など考えなければならない時期に突入して、なんとなくだけど構造だったり、今日は雪が降っていてBGMに坂本龍一氏の「COMICA」をかけたり、平沢進氏の「VISTRON」を聞いたり、「D2」の曲を聴いたりすると、礼儀正しさが静止する世界=「Phase-Dawner」に突入していしまいます。


必要なのは、「SIREN」の中で意味に戯れるあの男性です。
グラストロンとMIBURIを装着し、連綿と続く意味のネットワークの中で戯れるあの男性です。
いったんはソリッドエアーポケットに沈没するが、そこから世界とのつながりを取り戻そうとバイナリーデカルトと戦ったあの男性です。

そうしたわけで、僕には例の男性の妄想が必要なので、平沢氏の「点呼する惑星」を購入することにします・・・っていうか、まだ買ってないやw