蛙の中の井。

道端で車が走行しており、そしてその車は僕のものであり、そして僕はその車を運転していたのです。そういうふうにしていると、右側に濃い青色の衣類を着ている中年の男性の人間がおり、自転車を漕いでおり、辛そうな顔を浮かべている人間であったものでした。




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この5年間、僕はwillcomのZERO3シリーズを使い続けてきたのです。
初代ZERO3には夢がありました。
キーボードも付いてるし、動画も見れるし、インターネットにもつながるし、頑張れば漫画とかも見れるし、いろいろできるし、スケジュールの同期も取れるし、辞書も入れれるし、いろいろカスタマイズできるし。。。
・・・写真は初代が少しだけパワーアップしたヤツです。
不穏な写真は、ズジズダフ・ベグシンスキーの絵・・・のはずです。



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willcom03はあんまり評判よくなかったけれど、それなりに重宝したな。。。
たしかにイルミキーは使いにくいかもしれないし、動作はとってもゆっくりだし、カメラの画質が[es]の頃より明らかに悪いし、なによりピッチは速度が遅いし。。。
でも、3倍バッテリーをつけて5倍のゲインにして起動時間はめちゃめちゃ長くできたし、無線LANルータ化できたし、一通りのことはできて重宝しました^^


で。

も。

全体的に遅いw

動画を圧縮してwillcom03でみようとしても、画質を最低にしないといけなかったりかくかくになっちゃったりと、遅いw

で。

買い換えました。

ドコモにしました。




 僕の故郷的既知世界は、未だに異郷化することなく、懐かしさと親しみをもってそこにありました。"それ"は"そこ"に、"これ"は"ここ"に、僕の知りえる道路は礼儀正しくそこにあり、僕の知りえるお店は礼儀正しくそこにあり、僕の知りえる樹木や河原は礼儀正しく歳をとり、その場所におさまっていました。
 では、この"礼儀正しさ"はどこから来るのか? "それ"や"これ"や"道路"や"お店"や"樹木"や"河原"には共通の特徴があります。(以後、これらを"群A"と呼びます。)それは、私自身の在り方に対して、私の預かり知らないところに存在しているものである、ということです。自分がどんな生き方をしようと、どんなに絶望しようと幸福になろうと、そんなものはお構いなしに群Aは在ります。つまり、群Aは私たちの主観性を乗り越えて、主観性を超越して存在しているということです。




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薄くてサクサク動いて評判の良い、T-01Aです。
たしかにiPhonやエクスペリアが売れてますが・・・いいんです。
本体価格0円だし^^

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早速、T-01A用外皮を購入し、装着しました。
購入に踏み切った理由は、3G・Bluetooth無線LANの排他的接続を回避できて、ルータ化できるってわかったからです。
接続料の上限5980円で済むし^^



そういうふうにしていると、左側に濃い赤色の衣類を着ている加齢している女性の人間がおり、食料にすることもできる動物をつれていたのでした。そういうふうにして、僕は運転をしており、此の世に対するできうるかぎりの呪いの言葉を吐きながら車を運転していたのでした。その呪いの言葉はああしたものです。

「明るい。へ。行動している。が。素早い。と。叩く。を。」

そうした言葉をああしたふうに吐き出しながら車が走行を続けており。



・・・なにより・・・薄い。
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・・・でも・・・たぶん・・・大容量バッテリーを購入すると思うんで、太くなると思いますw
ああ。
これで動画の画質を落とさなくても綺麗に見れる!
3Gでサクサクネット出来る!
なによりも、銀色だ。
シュッとしてて未来の色だ。
しばらくT-01Aいじり倒します。
このスマホに名前をつけてあげないといけないな^^




さらに、群Aは自然の道理と理に従います。注意すべきは、ここで表現したい自然の理には、既に社会的に想定され定立化されている規則や規範やルール、法や制度のようなものまで含まれているということです。こうした、社会的に想定されている価値観の群れのことは、ここでは仮に"社会形式"と呼んでおきます。
 群Aたちは、自然の理に従って変化を余儀なくされ、社会形式に従って変化を強制され、こうした移りゆき転変してゆくことが群Aたちの"礼儀正しさ"です。

中間帰結:私たちは意識の主観性を超越して存在する世界を知っている。そして、その世界は既知限界を持ち、自然の理と社会形式に従って転変する礼儀正しさをもつ。