まぁなんていうか独り言というのかなんていうのか。。。

「すべてのものをかっぱらえ!だけど停電だけがおそろしい」ってのは電気グルーヴのある歌の歌詞だけど、オリンピックロゴをめぐる一連の騒動は、サンプリング&ミクスチャー文化について考えさせられるところがあるよなぁ。

昔病院で仕事をしていたとき、最も創造的な時間は事務当直のある人と話をしているときだったんだ。その人は芸術家で写真家なんだけど、現在の芸術の旬というか傾向というのはどんなもんかっていう話になったとき、結論としては「確かに現在はポストモダン以降の時代だけど、やっぱりサンプリングとミクスチャーが続いているんだろうねぇ」ということになったんだ。

ここで、“ポストモダン以降”という雰囲気について少し話した方が良いかな。これは、まぁ、思想史的な話ではあるんだけど、個人個人の成長史に関わる話でもあるから、身近なことに置き換えて考えてもらいたいんだど、人って、生きていると、理想に燃える時期ってあるよね。特に青年期とか。どこかに客観的な正しさがあるんじゃないかって模索する時期って誰しも身に覚えがあるはずだ。でも、成長するに従って価値観は複雑になっていくものだから、だんだん客観的な正しさは相対化されてきて、なんだか曖昧な現実を認めなければならなくなってきます。でね。おもしろいことに思想史を眺めても似たような傾向が見えるんだ。やっかいなことにも客観科学ってけっこう共通了解を得やすいじゃない。もちろんそれは勉強して身につくルールの世界のひとつの形態でしかないわけだけど、強力な共通了解を得やすいものだから、気をつけないと客観科学的な世界像こそが“客観的に正しいものの見方だ”となってしまいがちだ。でね。こうした理性の危険性には結構昔にカントが突っ込みを入れてたみたいなんだけど、なんだかだんだんその突っ込みもきかなくなって来ちゃって、ある時期に来たら「私の思想こそ客観科学的に正しい」と訴える人たちが出てきちゃったようなんだ。でね。例の世界を巻き込んだはた迷惑な大戦争になるわけだけど、ようはポストモダンはこうした危なっかしい客観的な正しさに対する反動形態みたなもんです。「どこにも客観的な正しさとかホントウなんてないですよー。客観的な正しさっつーのは相対的なもんであって、そんなに信用できないですよー」なんつって、客観的な正しさを相対化して無効にしちゃうの。そして、その相対化の根拠をどこにおくかでその思想の特徴が出てくるわけです。「差異の戯れ」なんて言葉があるけど、この表現はなんとなく的を得ているよね。

で。
ポストモダンはこうした権威主義を引きずりおろすにはよく力を発揮するんだ。でも、いろんなのを相対化するもんだから、人が生きる上で寄って立つ信念みたいなものもあやふやにしてしまう。いっくら理想的なことを言ったとしても「それってあなたの考えでしょ?別の人からみたらそんなんは真実でもなんでもないよ」なんつって。こうしたポストモダンの影響って、サブカルの中に良く現れてるよね。アニメや映画や小説を眺めてみても、勧善懲悪な物語よりも、いろんな種類の正義とかの価値観にもまれて葛藤する話とかの方が主流じゃないかな。・・・きっとニーチェが生きてたら喜ぶだろうw

でね。
ここでやっとサンプリング&ミクスチャー文化の話になるんだけど、サンプリング&ミクスチャーはまさしくポストモダンの雰囲気に合ってるんだ。どういうものかというと、僕は音楽の話しかできないんで音楽を引き合いに出して話をするけど、80年代の初め頃サンプラーっていう機械が誕生しました。その機械は、どんな音でもサンプリングといって録音して、音源として利用できるんだ。だから、過去の名曲のフレーズとかリズムとかをサンプリングして、自分も楽曲のネタとして利用できてしまうわけだ。冒頭にあげた電気グルーヴはいろんなところからいろんな音ネタをサンプリングしてきて自分の表現のあしがかりにしているわけ。だから「すべてのものをかっぱらえ!だけど停電だけがおそろしい」になるわけだw

「どこかに真実の、客観的な正しさをもった音楽があるわけじゃない。どこにもオリジナリティなんてない。でも、いろんな音をサンプリングしてミクスチャーすることで、誰よりも独創的な自己表現をしている」

まぁ、これは電気グルーヴに限ったことじゃないけど、サンプラーを駆使して音楽をしている人たちにはこうした真実味があるからかっこいいんだよなぁ。

で。
例のオリンピックのパクリロゴを作った人!あの人はひょっとしたら、こうしたサンプリング&ミクスチャーの文化を生きている人なのかもしれないなぁ。確か43歳でしょ?年代的にも青春時代はそうしたサンプリング&ミクスチャー文化で育ってきただろうし。

で。
今回の騒動でわかったことが二つあります。やっぱり権威は存在するということ。そうした権威的な場面では、ひょっとしたらサンプリング&ミクスチャー文化は役に立たないのかもしれなということ。もう一つは、今の時代は、サンプリング&ミクスチャーを乗り越えようとしているのかもしれないということ。ポストモダンの相対的でわやわやな雰囲気を乗り越えて、別のフェイズに移ろうとしているのかもしれない。とくに去年とかは、相対的な正義によってたくさんの人が死んだりしたし。

さて。
問題は次のフェイズがどんなものであるのかだ。多分、どこかに客観的な正しさを求める道は危険だからやめたほうがいいだろう。過去の戦争をみてもわかるように、正しさを主張すると人が死んでしまう。ということは、ポイントは、正しさが主義や主張に陥らないように気をつけるというところにあるのかもしれないな。もうひとつは、だからといって、なにもかも相対化してしまうようなポストモダン的な相対主義にも陥らないように気をつけること。ここに陥ると虚無っぽくなってしまう。

で。
客観化せずに正しさを語る方法についてだけど、やっぱりカントに戻って、理性の限界は知っておく必要があるだろうなあ。理性に総突っ込みを入れてあげるの。そのうえで、できる限り多くの人が共通了解を抱くとしたらそこにはどんな原理があるのか探ることが必要なんだろうな。そうなると、やっぱりフッサールがやったような現象学的な態度は大切になるのだろうな。

でね。
この辺の世界の行き詰まり感覚を敏感に歌ってるのがTMの「Alive」という曲だ!

最終的にTMのステマwwwwwwwwwww