はてさて。。。

さて。

一年を礼儀正しく振り返ります。

礼儀正しく振り返るための礼儀正しさはどこにあるのかというと、それは、僕に起こった出来事を無理に肯定したり否定したりせず、ある程度内省的に記述してみるといいうことなのでしょう。

そのためには、まず歌が必要です。

日本語では意味が湧き出てしまうから、日本語以外の歌が適当です。
 
 
 
 

「Seh Le Mao」が妥当でしょう。
なぜなら、平沢氏も歌っているし、それなりの諦観を表わしているし、タイだからです。


・・・。


今年は、いろいろなことがあったな。。。
実務の中だと反省すべきことがいっぱいだ。

・・・相談業務のことなんだけど、どうも僕は距離を近くしてしまって、あわあわして
しまうみたいだ。だから、一歩引いて出来事の意味をよく考えて次の一手を繰り出せるようにならないとな。。。

・・・結局、職場変えて1年たったわけだけど、正直不安感大爆発で右往左往しながら過ごしてたwだがしかし、確実に言えるのは、前の職場を離れて、僕はまた未規定的になれたということです。

一つのシステムの中に長くいると、その人の在り方は決まってしまうってのがあると思うんだ。つまり、「あの人はああした考え方をする人で、こうした仕事をする人だ」となんとなく分かってしまうということ。いや、正確に言うとちょっと違うな。自分や他人の関係の中でその人の役割とかキャラクターが決められてしまうというって感じかな(自分自身の性格自体、相互主観的なものだということ)。で。それはそれで仕事をするのは楽なんだけど、それは仮限界を示されているということでもあるし、そうした限界から逃れようとするのは大変だったりするもんだ。で。職場変えて平に戻って、そうしたものもリセットされた状態から仕事始められて楽しかった。

・・・僕の目の前にはタブレット端末がある。そのタブレットタブレットとして理解するには、僕はタブレットタブレットであると知っていなければならない。更にタブレットを使いこなすためには、タブレットを使って何ができるのかを知っていなければならない。そしてそれは、タブレットを使用できる文化の中にいないとタブレットを買うこともできないし、ネットにつなげることもできないし、他人にタブレットだって理解してもらうこともできないだろうな。ということは、僕の現在は、タブレットが使える文化とそれを知っているという歴史にまみれているということだ。もしここで、「僕にはこうした歴史があるからこうした行動を取らなければならない」としたらどうだろうか?その人の可能性は一つの歴史の中に押しとどめられてしまうといえないだろうか。かといって、「僕は歴史から逃れていて自由だ!」といってしまうのもなんか無責任な気がする。。。

というわけで、僕は確かに病院勤務を7年間してきたという歴史性をもっているけど、それによって僕の現在がすべて決まってしまうというわけでもないだろう。たぶん、僕は僕の知っている範囲でしか行動できないかもしれないけど、僕は僕の知らない部分も持っているだろうし。

・・・人は既知限界的に見えるけど、それは意識的に把握できるその人の一部分でしかなくって、常に未規定的な地平がその人の現在には寄り添っている・・・その未規定的な地平は、手付かずのままにしておくこともできるけど、礼儀正しく接すれば、別の可能性の地平を見せてくれる・・・

そうしたわけで、僕は僕の歴史性を了解したうえで、別の可能性を探ってみる一年間でした。

で。
具体的に何をしたかっていうと、研修に出たり資格取ったりいしてた。

で。
今年の経験をもとに、また自分の人生のキャリアのかじ取りをしないとな。。。


・・・なんか、ブログ更新しないでいたら、文章まとめるのが下手になったwww



それから、世界像の話もしたいな。

えーと。
なんだ。
あれだ。

世界像。

そう。
文化や歴史とも関係があるんだけど、人は世界像を持たないと判断ができないって話。
世界像から逃れられないし、世界像によって対立が起きたり行が規定されたりするって話。
で、厄介なのは、世界像はほぼ自動的に作り上げられて、実体化ししまうという点。
目の前にあるタブレットのように、❝もの❞になってしまうんだ。
でも、世界像が実体化するということ自体は自然なことだからケチの付けようがない。
でも、それによって対立したり行動が既定されたりという不具合が起きているといいうことは、なんとか解決の手段を考えないといけない。
世界像実体化自体は避けられないことだから、せいぜい僕らにできるのは、世界像が作られるその成り立ちを探ることになるのかな?

で、支援の話なんだけど、こうした視点に立って考えると、結局のところ支援の客観的な根拠というものは相対的なものであって、支援を受ける側の望む世界像と支援をする側が提供できる世界像が、いかにマッチしているということが肝になってくるんじゃないかな?

さて。
ここで分岐点だ。
こうしたことを事実を受け入れたうえで、「そんなんいったって、世界像なしだと判断なんてできないから、なにか一つの依って立てる世界像を打ち立てるんだ」とする考えと、何か一つの世界像に頼らないように未規定的でいること。

うーん。。。
むずいな。。。

後者のほうが可能性がある感じがするけど、そんなことは本当にできるのかな?

で。
今の職場は心理職が多いから、心理学的世界像が幅を利かせている。。。
でもそれですべて解決できるわけではなく、やっぱっり不具合は出てくる。。。
というわけで、現実の根拠を探るための現象学的な態度が必要になってくるのだろうけど。。。


まあいいや。

みなさま良いお年を。

Seh Le Mao