アザトース。

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よく、“壊れゆく地球”とか、“自然破壊”とかいうけど、ひょっとして、地球は全然壊れてないんじゃないっすかねぇ?

“自然を壊す-自然を守る”っていう価値評価自体、人間主義的で傲慢な、自分勝手な思いこみで、人が人為的に自然を壊したり地球に影響を与えること自体、実は自然な成り行きなのかも知れません。

ってことは、“地球を壊すこと=悪いこと”、“地球を守ること=良いこと”って感じで、価値観の内側で話すよりも、もっと別の視点が必要なんじゃないかなぁって思いました。

僕たちの中に既に在る自然観の内で善悪をはかるんじゃなく、僕たちの持っている自然観を包括するような、もっと大きな自然って感じ。
そのなかでは、“壊れる-壊れない”っていう価値評価自体、たんなる自然な流れの一つに過ぎないような・・・。

こういう見方に立つと、世の中にある、主義とか主張とか、理念的なものとか、そうした世界像全般が、如何にちっぽけなものかわかります。

それと同時に、僕たちの現実が、如何に世界像と密着していて、離れることができないかということもわかります。

僕の仕事はソーシャルワークなんですが、その仕事のことを人に言うと、価値観の内側で判断されがちです。
つまり、“世のため人のためになる、良い仕事をしている人”という評価を受けるわけです。
こうした評価を受けたとき、僕は何だかやりきれない気持ちになります。
何ともいえない違和感と、いたたまれない気持ちに苛まれ、苛立ちを感じます。
たぶん、慈善や慈悲や奉仕の精神や、それに対立するプラグマティックに利己的な見方を動機に持とうとすると、どこかで不具合がでてしまう。

こうした、“良い・悪い”や、“慈善・慈悲・奉仕やプラグマティズム”にもと付く価値観の内側にある動機を、仮にA動機と読んでみます。

僕たちは精神科でソーシャルワークをする上で、基本的には生活世界に身を置き、障害を抱えながらも生活をする一人の“生活者”として、その人に接します。
この“生活者”をA動機で基付けしようとすると、ちょっと不穏な見方が成立してしまいます。
つまり、生活世界が真実の世界であり、その真実の世界で生活する生活者こそが、本当の人間の姿である、という見方です。
これはこれで、美徳としては問題ないんですが、ちょっと危険です。
なぜなら、そのように価値観を設定してしまうと、その設定した価値観に対立する価値観を生み出してしまうからです。

生活世界に身をおけない人は悪者になってしまう。

生活者として生きれない人はうその人間になってしまう。

・・・以前、実習中の指導者の方から「偽善でソーシャルワークをしようとしている人は帰ってください」と言われて、何だが腰砕けな気分になったことがあります。
この方は、A動機に自らが規定されてしまっている。
“善”という価値観そのものがどのように成り立っているのか直視しようとする視線が薄くなってしまっている。
それとともに、自らの内側に“偽善”という対立する価値評価を生み出してしまっている。。。

もし、生活者としての真摯な見方を貫こうとするのならば、価値観成立の以前の、もっと直接的な現実の仕組みを読み解く必要がある気がします。

というのも、僕たちが接している方の多くは、世の中に既に設定されている価値観と、自分自身の抱えている症状のためにそうした価値観をうまく生きれない現実のなかで、実存が悲鳴をあげているからです。

ですので、僕たちは、価値観を振りかざしてその人を価値観の内側に規定させていくのではなく、その生きられてしまっている実存を上手くすくいとって、そこから世界をめがけていくような態度をとる必要があると思います。

おそらく、僕たちソーシャルワークをする者にとっては、こうした設定された価値評価(A動機のような)以前に生きられてしまっている現実を知ることが必要でしょう。

単純にA動機から規定された形でソーシャルワークをしようとすると、何が現実か見失って、他職種と衝突してしまう可能性があります。
ソーシャルワーカーが接近できる生活者的現実こそ真実で、客観科学的な医学に彩られた接近の仕方は嘘の現実だ”なんてなったら、チーム医療どころの話じゃありません。

こんなふうに表現すると、A動機を持つことが何か悪いことのような感じがするかも知れませんが、ここでそうした見方をしたら、その見方自体、価値観の内側での判断となってしまって、元も子もなくなります。

A動機は必要なものです。
A動機を持つということは、良いことでも悪いことでもなく、“必要なこと”です。
そのことを知るヒントは“対処技能”という表現にあります。
例えば、何らかの危機に陥ったとき、人はその危機に対処しようとします。
ストレスを感じたら、カラオケに行ったり温泉に行ったり、友達と飲んで騒いだり、家でじっとしていたりと、様々な対処の仕方で現実を乗り越えます。
不健康な対処の仕方となると、お酒に依存してしまったり、場合によってはリスカしたりすることもあるかも知れません。
似たようなニュアンスで、私たちはA動機みたいな世界像を打ち立てて、その中で自己肯定感を得ながらでないと、やってらんないのかも知れません。
世界像を持つことそれ自体は、現実をドライブするための“必要なこと”、つまり対処技能であると表現できそうですが、あまりにもこの世界像と自分とが一体化してしまうと、逆に世界像に現実が規定されてしまうことにもなりかねません。。。

・・・ソーシャルワークを“善”という価値評価の内側に規定しようとした方しかり・・・。
・・・あまりにも現実に妥当しない世界像の場合は、対処技能としては成立しているけれど、妄想としかいえないような状態になってしまうのかもしれない・・・。。。

さて、こんな感じで、僕たちは世界に奥行きを持たせながら生きているんですが、奥行きに礼儀正しく触れないと、何が現実かわからなくなってしまいます。


ちなみに、ラブクラフトの小説には、「<万物の王である盲目にして痴愚の神>・“アザトース”」という神がでてくるんですが、人間はアザトースのことを何一つ理解できません。
どんな価値観をもっていて、何を意図して、何をしたいのか、理解することはできません。
ただアザトースに触れた者は、“理解できないことに対する恐怖感”に苛まれます。



・・・・・・僕は、できるだけ地球の環境にやさしく生活をしたいと思うけれど、それは、“良いこと”でも“悪いこと”でも“正義”でも“倫理”でも“道徳”でも“理論”でも“科学”でも“心理学”でも“社会学”でも“思想”でも“主義”でも“主張”でもないんだろうなぁ・・・

述語化するのが難しいのですが、あえて言えば、“ムード”や“雰囲気”的な、“必要なこと”だからなのかもしれません。


あ。

お気楽イデアリズムに突入しそうw

あぶい。
あぶい。



※参照:理念と現実についての記事。
・訓戒の花(http://blogs.yahoo.co.jp/nanonoid/28692840.html
・猫2(http://blogs.yahoo.co.jp/nanonoid/30857215.html