体育館の床下に死体は埋まっていない。

“2008/2/18(月) 午前 1:38”に、僕のブログのゲストブックに書き込まれた、おそらく自動巡回によるだろう書き込みに対する僕の返答。



怖い話といえば、小学校のとき、体育館の床下に、死体が埋まっているという噂話がありました。
そうして、僕の友達で、本当は友達ではないんですが、恐らく、7割がた友人であろうS君が、床板を剥がし始めました。
そうして、そのことの許可を先生に取りに行ったのですが、先生は、きっと、頭ごなしにダメって言ったら、逆効果なのではないのかと思って、床を剥がすことを許可したのだと思いましたが。

そうして、彼はその床板をばきばきばきばきと剥がし始めたのですが、僕は彼の左後方の遠方の、椅子が山積みになっているところで、ほうきを持ちながら傍観していました。
恐らく僕は、「死体がでてきたらどうなるのだろうか?」とか、「はたして死体はあるものだろうか?」とか「死体はない。」と思いながらこの行為を見ていたことと思います。

体育館の天井は高い。
そうして、体育館の天井の一部分は人の顔に見えて気分が悪い。

結局のところ、死体は無かった。

死体は無く、先生は“そらみたことか。”的な、教師として、子供に何かを悟らせてやったとでも言ったような得意げなニュアンスで、無言で去って行ったのですが、僕はその姿に違和感を覚えました。

しかし怖いのは、超越です。

それは、教師が、決して形式化しないシステムとして、僕を規定してくるという怖さです。
倫理観を強要されて、道徳観を強要されて、善意を強要されて、そして、構造の中から反超越を強要される方もいますwww
そうすると、なんていうか、どうでもいい諦念の思いに苛まれます。

だが僕は、そんな超越はどうでもいいんです。
なぜかというと、顔の皮膚が剥がれ落ちることが先決であって。
鼻炎で鼻水が止まらないことが先決であって。
皮膚のかゆみが延々と止まらないことが先決であって。
なにより、病院にいくことで、授業を途中で抜け出せることが先決であったからです。
ですので、例えば僕にとっては、そうした教師がみせる抽象的な価値観なんて、正直どうでも良いことで、それよりも、自分自身が普通に振舞えるか振舞えないかのほうが、怖いことだったんです。
ですので、皮膚を鍛えるたえにスイミングスクールにいったんですが、長続きしませんでした。
その先生は書道の時間に“愛”という言葉を書いていたんですが、ぼくにとっては超越的な“愛”という言葉をいっているにすぎず、現実味が無い上滑りすることばであったということを強く覚えています。

さて、時間が過ぎて、現在に現在しても、この怖さは顕在しています。
それは、僕を規定しようとする倫理や道徳のシステマチックな恐怖感です。
ドゥルース、ガダリが「アンチ・オイディプス」の中で書いた“社会機械”に対する恐怖感なのかもしれません。
きっと、そうした価値の群れ、現実から遊離した僕の生き様を規定してしまうような価値の群れに対しては、“死をかけた抵抗”とでも表現できそうなニュアンスが必要なのかもしれません。

この文章は、“粋”に属する。

なぜなら、超越に向かっての文章だからです。

この文章は、自動巡回されて、僕のゲスブに何の意図も無く書き込まれた文章に対する、僕のこれまでの履歴をぶつける文章だから、“粋”として、ギャグとして、くだらなさとして、どうでもよさとして、諦念感として、ゆーもあとして、風流として、パンクスとして、成立しているのです。

僕の仕事はソーシャルワークなんですが、ともすると社会機械に規定されてしまいます。
つまり、人の為に何かをするということは、倫理的・道徳的に良いことだから、ソーシャルワークは美徳だと、仕事をしてしまいがちだということです。
僕たちは、基盤が貧弱です。
30年前にやどかりの早川さんが言っているように、僕たちソーシャルワーカーは基盤が貧弱なんです。
気をつけないと、客観科学の寄せ集めになってしまう。
で、現場で臨床を経験しているワーカーは、客観科学という世界像に自らの業務が規定されてしまうことに疑問を抱くんです。
疑問を抱くんですが、客観科学以外の見方を知ることが出来ないから、自らの仕事を、客観科学とは別の世界像の中に規定することしかできなくなってしまう。
つまり、「人の為に何かをすることは、倫理的・道徳的に美徳だから、無償の善意にかけて、ソーシャルワークをする。」というような表現の仕方しか出来なくなってしまう。

中には、、この二つの世界像に納得できないワーカーもいます。
これらのワーカーは、プラグマティズムに自らを規定しようとします。
美徳は美徳であるし、客観科学は客観科学としてあるのだけど、自分は生活の為に、お金の為に仕事をするぞ!って感じです。

・・・しかし、プラグマティズムも世界像だ。。。

ワーカーのよって立つ基盤が、社会機械や捏造された世界像のなかにとどめられてしまうと、どこに現実があるのかわからなくなってしまう。
何が現実で、何が世界像かわからなくなってしまう。
真実を追い求めたり、善悪や幸福を追い求めることに終始してしまって、何が現実かわからなくなってしまう。
ですので、やどかりの早川さんは、何が現実か発掘する方法を、技法として、態度として、ワーカーは持つことが必要だと訴えるわけです。

さて、それから30年。
いったい、僕たちソーシャルワーカーはどうなってるかというと、まるで医者のように客観科学に隷属しているワーカーや、まるで法律家のように法的世界像に隷属しているワーカーがはびこることになってしまった。

・・・・・・・・・・・・ここで、価値観に敏感になることことが必要です。。。。。。。。。。。。

つまり、そうした、発展途上にある現実を恨むのか、それとも発展途上にある現実を、現実の一つのありうべき一様態として納得するのか・・・。。。

恐らく僕の仕事は、現実を否定したり、彼岸を思い描くことではないと思います。
現実と仲良くなることが仕事です。。。まぁ、ソーシャルワーカーだしw
だから、たぶん、時間はかかるだろうけど、そうしたワーカーの陥っている現実ともお付き合いしながら、善意や倫理や道徳の世界像に陥らないように気をつけながら、“生活”をすることが必要なんだと思います。

以上の理由から、僕は“決して読んではいけない怖い話”を読む勇気は無いので、とりあえずは読まないでおくことにします。
僕は“誰でも”ではないので、楽しめないので。。。^^

・・・この文章は、虚無に向かって言葉を投げかけるというギャグなんで、誤字脱字があってもギャグなんです。
おかしな表現があってもギャグなんです。