ビーカー界。

例えば、ゾウリムシの生きている現実を、私たちは生きることができません。
ゾウリムシは聴覚と視覚がないので、繊毛で知覚できる限りがその世界のすべてになります。
昆虫には視覚がありますが、彼らは複眼なので、世界は多重化して見えます。
やはり、私たちはその現実を生きることができません。

私たち人間には、世界を思い描くことができるという特徴があります。
その思い描いた世界像を共有して、現実を共に生きることができます。
例えば、言語とかも世界像の一つであり、抽象的で実体がないにもかかわらず、私たちはあたかもそれが実在するかのように思い込んでいます。

一昔前までは、物語的な世界像が幅を利かせていました。
いわゆる、宗教的な世界像です。
現在では、客観科学的な世界像が幅を利かせています。
この世界像は大変強力なもので、私たちは延長(数字と幾何学)で表された世界を真実の世界と思い込んでしまっています。

例えばTVなどのメディアでは、スピリチュアルな世界がブームとなっており、そのスピリチュアルな世界は、客観科学的な世界像と対になるものと捉えられています。
メディアでおなじみの表現を使うと、「現代では客観科学的な世界像が強くなってしまったので、生き生きとした宗教的なスピリチュアルな世界があることが忘れられてしまっている。現代人はスピリチュアルな世界像を取り戻すことで、幸せに暮らすことができる。」というニュアンスになると思います。
“良い-悪い”とか“幸福-不幸”とか、価値観を定立したまま捉えると、確かにそうしたニュアンスが成立します。

しかし、価値観の手前にある“構造”のみを見つめる視線から考えると、宗教的な世界像と客観科学的な世界像には共通する特徴があることがわかります。
それは、どちらも認識主観である人間が作り出した価値の群れである、ということです。
スピリチュアルな世界が本当の世界というわけではなく、科学的な世界が本当の世界というわけでもなく、ただ人間にアプリオリ(先天的)に備わっている世界を思い描く能力が作り上げた、世界の見方の一つだということです。

価値の手前で考えると、人間には、現象に対して意味を与えていくことで世界を自分にとっての世界に変えていく、"意味付与の多重化システム"という特徴があることがわかります。

ゾウリムシは、繊毛で知覚できる既知限界内でしか生きることができません。
価値の手前で考えるのなら、私たち人間はゾウリムシの繊毛に変わる“意味付与の多重化システム”によって展開される既知限界内でしか生きることができません。

こうして、世界像の根っこに接近していくと、私たち人間は事実と意味が混濁した、癒合的な世界を生きているといえます。
人間には世界に意味を付与するという特徴がある限り、単に意味と切り離した事実のみの世界が存在するとか、事実と切り離した意味のみの世界が存在するとか、そうしたことは表現できなくなってきます。
もちろん、価値の手前でなく、価値の向こう側、すなわち、価値観を定立化したなかでは、こうした表現も可能になりますが、価値の手前で話すのならば、どちらも癒合していると表現せざるも得ない、ということです。


・・・アイザック・アシモフの短編に、僕たち人間はビーカーの中のゾウリムシみたいなもので、その世界内でしか生きることができないのだ、という文章があった気がします・・・どの話かはよく覚えていませんが・・・w・・・なんだか、そんな気分の一日でした^^