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今日。

僕は。

もどかしい出来事に遭遇しました。。。



それは、僕らの倫理観や道徳観を試されるような出来事です。

それは、「善意を利用した恐喝」とも呼べる出来事です。

「俺達は世の為人の為になることをやってんだよ。だからてめーら協力しやがれ。金出しやがれ。」とでもいったような出来事です。


そんな出来事に遭遇したら辛くなってきた。。。



僕は平沢進氏(以下“師匠”)が好きなんだけど、師匠には見習うところがあります。
それは、善意を押し売りしないというところです。
彼はただただ意味に戯れて、驚異して、発見して、気付いて、それを演出して自己表現している。
そうした態度が此の世の出来事に対する礼儀正しい態度なんだと思うんです。
最初に述べた、「善意を利用した恐喝」を繰り返す人とたちとはまったく違う此の世に対する態度だと思うんです。
(※僕は師匠のことを“尊敬すべき偉大な人物”とはみていない。一介の芸人としてみている。もちろん、僕にとっては尊敬すべき人物なんだけど、そんな表現をするのは不粋だろうし、たぶん、芸人という見方をするほうが師匠の自己表現に対する礼儀正しい態度なんだと思う。ゆえに師匠は単なる芸人。)


多くの「善意の恐喝者」は、自分で考えることが苦手のようです。
意味に驚異して、発見して、気付いて、表現する、なんてことは、なかなかできないようです。
僕は何日か前のツイートで、「「使い手」とは「発見者」「気付くもの」のことだ」って表現してみたけど、「善意の恐喝者」は師匠のような「意味の使い手」にはなれないだろうな。

「善意の恐喝者」は、せいぜい実在的な(実体化した)意味の内側で右往左往するだけなんだろう。
社会的な規範には従順だけど、自分でなにかを発見することはできないだろう。

・・・たぶん・・・彼らは歌を歌えない・・・。

いや、歌を詠めないっていったほうが適切か。

彼らは不粋だ。

社会的な規範に盲目的だからこそ、「俺達は世の為人の為になることをやってんだよ。だからてめーら協力しやがれ。金出しやがれ。」なんて失礼なことがいえるのかもしれません。

はぁ。。。

こうして現実は、思い描かれた客観性によって(それはつまり、現実から遊離した観念によって)覆い隠されていくのだろう。


正直、「善意の恐喝者」達については“kick it out”してやりたい気分だ。
ケツを蹴り上げて、此の世から追い出してやりたい。
でも、それをしたら僕自身が「善意の恐喝者」=「悪い人たち」という価値観の内側で出来事を判断することになってしまう。
それでは、構図としては、僕自身(実在的で実体化した価値観の内側で判断を下しているという意味では)「善意の恐喝者」たちとまるでかわりがなくなってしまうだろう。

たぶん。

もし。

僕が。

彼らの無礼に気付けているのならば、僕は現実の味方でいる必要があるのだろうな。

客観的な観念によって現実を覆い隠すんじゃなくて、現実になにが起こっているのか立ち止まって考えてみる態度を維持する必要があるだろう。。。

師匠をお手本に、歌を詠むことも必要だろう。。。




・・・。




先日、ある男性が印象的なことを言っていました。

その方は、ある不幸な事情により少し逆境に置かれているのですが、「私には思想がありますから」と言い放った。

“思想”という言葉を使ったので、僕は「何かの主義や主張をお持ちなんですか?」と訪ねたら、彼の表現する“思想”とはそうしたことではなくて、「自分で考えること」を指すらしいのです。
つまり、「私は逆境に置かれているが“自分で考えること”ができるから大丈夫なんだ」ということを言いたかったみたいなんです。

僕は、ハッとさせられて、胸を打たれて、なんとなく、彼に対して「内的同盟関係」みたいなものを感じました。

うれしかった。

きっと大丈夫だと思った。

彼のような人がいる限り、師匠のような達人がいるかぎり、僕らは「善意の恐喝者」に怯えなくてもいいんです。

僕らは自分で考えることができるんです。


以上の理由から、この文章のタイトルである「www。」とは、自嘲的で他罰的な「www。」ではなく、「What a Wonderful World」の略なのです。