クロノクロス。

クロノスがクロスしている。

いやあ。

いろいろな出来事は重なるものですね。

一ヶ月前はまだまだ今の職場で仕事を続けていくだろうと思ってたけど、なんだかいろいろ“むう”とする出来事があって、合理性よりも矜持を選択して仕事を辞めることにして、次の職場が決まってないまま勢いでの退職だったんだけど、ありがたいことにいろんな人がお声をかけてくれて、うれしいことに次の職場をこちらから選択できる状況になって、そんで選択して、次の職場にバイトでいくことになって・・・。

おもしろいことに、今回の展開の動因になったのは、合理性でも常識性でも日常性でも道徳性でも社会性でも何でもなくって、“むう”とした何ともいえない感覚を大切にした結果でした。

結果として、なんとなくステップアップにつながりそうなんで、その感覚を大切にしたこともタイミングとしては良かったのかなぁ・・・と思っています。

たぶん、現実とはこんな感じで、自分自身を背景的に規定している理性的な価値評価なんてものはけっこうちっぽけなものなんだろうなぁ。。。もっと不合理で雰囲気や気分が支配的な、受動的などうしようなさみたいなものが根っこにはあるんだろうなぁ。。。この領域を“無意識”なんて言葉で呼ぶのはちょっと無粋なんで、たぶん、「相互主観的な受動的綜合の領域」なんつっとくのが説得力があるんだろうな。

そんで。

今日。

親戚のじいちゃんが死にました。

ちょうど僕がお見舞いにいって20分後くらいです。

痰がひどかったな。

呼吸が難しくなってだんだん顔色も悪くなってきて意識が遠のくように逝かれたので、たぶん苦しみはなかっただろうけど。

自分の自宅で息子や嫁さんに見守れながらだったんで、生き抜いたって感じだろうな。



自分の身の回りのことと重ねて考えると、ひょっとしたら今年はいろんな履歴を分断する年なのかもしれないなぁ。。。




なんつーか、こうしたクロノスはクロスするものです。
そして、こうした出来事に意味を持たせるのはその人自身のパースペクティブな在り方に関わってくるんだうな。
そんで、僕はこうしたクロノスには“非因果的必然性”っていう意味を付与したいと思います。
たぶん、こうした意味のあると思えるような偶然には背景的な(超越的な)意味はないんだ。
それは、僕自身がなにかの信仰をもっていないからってことでもあるんだろうけど、きっとそのクロノスには、その人の実存的な領域から眺めてみて初めて“必然的”といえるような疑えなさが発生するんだろう。
そんで、この“実存領域から規定される疑えなさ”っつーのが、いわゆるナラティブな明証性になるんだろう。
その出来事に超越的な因果を想定する根拠はどこにもないけど、その出来事にどうしようもない意味を感じられるから“非因果的必然性”と概念化される。

そうしたわけで、僕のこの一ヶ月は非因果的だけれども必然的と感じられるような疑えなさを持った一ヶ月だったんです。