今日出会った素敵な言葉。

「カウンセラーは酒を飲んでいないときでも、酒に酔ったような心境でなければならぬ。天真爛漫、天衣無縫でなければならぬ。防御がなければないほど好ましい」(『カウンセリングの技法』國分康孝)

國分先生の本を直接読んだのは初めてだったんだけど、冒頭でこの言葉に出会って、心がグッと軽くなる感じがしました。もちろん、國分先生は、酒を飲んでるときのようにヘロヘロしながら仕事しろとかそういうことを言ってるわけじゃなくって、タテマエから脱却してホンネを生きろということをいいたいらしいです。そうした意味で自己一致していないと、カウンセリングしててもつらくなるだけだし、良い支援なんてできないよってことのようです。

自分の支援を振り返ってみても、患者さんといい感じのやり取りができていたときってのは、自分が 天真爛漫、天衣無縫でいられたときだとわかります。つまり、自分の中での社会的な役割だとか変なこだわり(とりわけ「良い‐悪い」とか価値観に彩られたこだわり)だとか、そうした枠を外した関係性の中でことが進んでいくときに現れる感じです。
 
・・・良い支援っていうのははまさしく現れます。。。
 
“良い支援”それ自体に実体なんてものはなくって、関係性の中でこそ意味を持つ現象として現れ出るといえます。そして、それは 客観的な(つまりタテマエとしての)支援とは全然別種の出来事でもあります。・・・なにか支援のプロセスがあって、それに従っていく中で得られるってことじゃなくって、その都度その都度の中で生成されていくって感じかな。

そもそも、僕が精神の領域を目指そうとした初発のニュアンスは、価値観に対する問題意識です。それは個人史にまつわることでもあるけど、既にできあがってる価値評価によって、その人の現在が規定されてしまうということをどうにかしたいという思いです。だから、まったく持って利他的でも他者救済的でもないし、誰かを幸福にしてやろうなんて気はさらさらないです。むしろ、気概としては「生きたいように生きて死にたいように死ねればなぁ」といったところです。でも、この「生きたいように生きて死にたいように死ぬ」ということが、國分先生の表現するところのタテマエによって阻害されているからおもしろくないわけです。

だから僕は、心理学のような客観的に作られた観念の体系が嫌いなわけで、だからこそ現象学をやって作られた観念の体系を解体する作業をしてみないとならなかったわけです。

(でもこの観念の解体作業というものがやっかいなもので、気をつけないと現象学的な虚無感とでもいうような虚しさに陥ってしまったりもする。この虚無感は観自在に観れていないから起こるだけで、ちゃんと反省できれば回避できると思う。。。)

で。

最近の僕自身についてです。

職場には心理学的な世界像を巧みに扱う人たちが多くて、僕はこの世界像をうまく扱えない。うまく扱おうと努力するんだけど、これがなかなかうまくいかない。観念が現実にうまくタグ付けされてなくって、ちょっとずれた言葉遣いになってしまう。これはもう経験不足としかいいようがないんだけど、勢い「ああ。これだから俺は。。。」とか思えてしまう。

で。

そんな中、今日國分先生の言葉に出会えました。もちろん、心理学的な世界像を巧みに操れることに越したことはないでしょう。でも、そこにとらわれてしまうと、堅苦しくなってしまうわけでもあります。天真爛漫・天衣無縫の感覚を大切にしたいなぁと思いました。