判断の達人。
僕は、「柔軟性をもつとはどういうことか?」ということについて考えてみる必要があるように思えます。
仕事にしても生き方にしても、柔軟性をもって対応することはとても大切だと思います。
なぜ大切なのかというと、白黒判断がつけれる出来事はまれだからです。
たとえば、それが単なる知覚的な認識などであれば、おそらく白黒判断をつけることは可能でしょう。白色は白色と知覚するから白色であり、黒色は黒色と知覚するから黒色であります。もし、白色を黒色と知覚したとしても、その色がその人にとって黒色と知覚されている限りにおいて、黒色と見間違えられた白色は、白黒つけられた判断として黒色なのです。
ですが、価値評価を含む判断となると、このようにはいきません。
「良い―悪い」、「正しい―正しくない」といったような価値を含むと、たちどころに白黒判断をつけれなくなります。
そして、実生活においては、価値評価を含む判断をしいられます。
なので、白黒つける判断にたよるよりも、どんな価値評価にも耐えれるような柔軟性をもった判断が、実生活のなかでは有用に思えます。
なぜ大切なのかというと、白黒判断がつけれる出来事はまれだからです。
たとえば、それが単なる知覚的な認識などであれば、おそらく白黒判断をつけることは可能でしょう。白色は白色と知覚するから白色であり、黒色は黒色と知覚するから黒色であります。もし、白色を黒色と知覚したとしても、その色がその人にとって黒色と知覚されている限りにおいて、黒色と見間違えられた白色は、白黒つけられた判断として黒色なのです。
ですが、価値評価を含む判断となると、このようにはいきません。
「良い―悪い」、「正しい―正しくない」といったような価値を含むと、たちどころに白黒判断をつけれなくなります。
そして、実生活においては、価値評価を含む判断をしいられます。
なので、白黒つける判断にたよるよりも、どんな価値評価にも耐えれるような柔軟性をもった判断が、実生活のなかでは有用に思えます。
だがしかし、柔軟性をもった判断というのも曲者で、この判断に頼りすぎると、どこにも真偽の根拠がもてなくなります。
どんな価値評価も、その人の置かれている状況にゆだねられるとすると、たちまち相対主義的な視点に陥り、どんな出来事も真になり、どんな出来事も偽になってしまいます。
つまり、物事に真・偽を下す判断の基盤があやふやになって、どこにも判断の責任がなくなってしまう。
どんな価値評価も、その人の置かれている状況にゆだねられるとすると、たちまち相対主義的な視点に陥り、どんな出来事も真になり、どんな出来事も偽になってしまいます。
つまり、物事に真・偽を下す判断の基盤があやふやになって、どこにも判断の責任がなくなってしまう。
・・・生きていると、たまに達人に出会うときがあります・・・。
それは+、判断の達人です。
判断の達人は、教条主義的に価値を固定させることはありません。
どちらかというと、判断に柔軟性があり、その場その場の状況に合わせた判断を行います。
そして、判断の達人が行うその場の状況に合わせた判断というものは、客観的な妥当性を兼ね備えた判断ともニュアンスが違います。
客観的妥当性とは、出来事の外側にたって判断を下すことであるから、暗黙のうちに固定化された価値を利用することになってしまう。
そうではなくて、判断の達人の判断は、柔軟だけど確信をもっているような、なにか力強い判断になります。
そして、判断の達人の肝は、この“確信”にあるように思えます。
どちらかというと、判断に柔軟性があり、その場その場の状況に合わせた判断を行います。
そして、判断の達人が行うその場の状況に合わせた判断というものは、客観的な妥当性を兼ね備えた判断ともニュアンスが違います。
客観的妥当性とは、出来事の外側にたって判断を下すことであるから、暗黙のうちに固定化された価値を利用することになってしまう。
そうではなくて、判断の達人の判断は、柔軟だけど確信をもっているような、なにか力強い判断になります。
そして、判断の達人の肝は、この“確信”にあるように思えます。
この“確信”とは“疑えなさ”と言い換えても、それほど間違いはない気がします。
判断の達人はその判断において、なにか疑えなさをもっている。だから、そのつどそのつど柔軟に判断を下すけれど、その判断は力強さをもっている。。。
判断の達人はその判断において、なにか疑えなさをもっている。だから、そのつどそのつど柔軟に判断を下すけれど、その判断は力強さをもっている。。。
そうなると、この“疑えなさ”とはいったいなんでしょうか?
一つには、所属する世界像が上げれると思います。
たとえば、その人の所属する文化が思い描く判断は、その人にとって“疑えなさ”を伴っているでしょう。
ひょっとしたら、その世界像は宗教的なものかもしれません。もし、その人が信仰のうちに“疑えなさ”をもつのであれば、その判断は力強いものになるのだと思います。
たとえば、その人の所属する文化が思い描く判断は、その人にとって“疑えなさ”を伴っているでしょう。
ひょっとしたら、その世界像は宗教的なものかもしれません。もし、その人が信仰のうちに“疑えなさ”をもつのであれば、その判断は力強いものになるのだと思います。
だがしかし、文化は時と場所によって違ってくるので、誰にでも通用するものではありません。制限を受けた、固定された価値に基づく判断の一種類になるでしょう。
宗教的な世界像も、その信仰の内側でしか通用しないので、誰にでも通用するものとは言い切れないのではないかと思います。これも制限を受けた、固定された価値に基づく判断の一種類になるでしょう。
宗教的な世界像も、その信仰の内側でしか通用しないので、誰にでも通用するものとは言い切れないのではないかと思います。これも制限を受けた、固定された価値に基づく判断の一種類になるでしょう。
では、誰にでも共通する、価値が固定する手前の“疑えなさ”とはいったいなんでしょうか?
僕には、“在る”ということのように思えます。
その人が所属する世界像がまるで違っているとしても、その人が人であるならば“在る”ということ、それ自体は疑いようがありません。
ですので、もし、柔軟性を持った確信的な判断を求めているのなら、世の中で一番の疑えなさである“在る”ということについて考えてみる必要があるように思えます。
そして、この反省の出発点として、一番身近で、そもそも判断を繰り出している“在る”である、人間存在の分析からスタートさせてみることが妥当だと思います。
そして、この反省の出発点として、一番身近で、そもそも判断を繰り出している“在る”である、人間存在の分析からスタートさせてみることが妥当だと思います。
そうしたわけで、現存在の分析は柔軟に生きるためにも必要なのです。