映画『キカイダー』の感想。
※ネタバレ注意!
やっぱアレかなぁ。。。
日本の特撮ものは、おとぎ話を読み解くような態度で見ないと楽しめないってことかなぁ。。。
ロボものSFとして今年はロボコップあったけど、あっちは主役の心の動きやストーリーの運び方にしても、“さもありなん”という納得感があった。しかし、キカイダーはつっこみどころが多すぎて、向こうの映画のノリで見るとがっくりしてしまうかも。
でも、比喩と隠喩で捉えれば、それなりに面白味は感じられるだろうな。。。
“比喩や隠喩”・・・これこそ、この映画を読み解くカギなのかもしれない。。。
キカイダーって、ロボだから心がないんだ。でも、良心回路ってのが内蔵されているから、判断にゆらぎが出てしまう。
「良心回路=心」かっていったらそういうわけでもなさそうで、キカイダー役の人は終始無機質、無感動な演技を続けていた。
ということは、良心回路ってのは機械に感情を持たせる回路というわけではなくって、きっと善悪の基準が列挙されていて、その基準にそぐわないような出来事に遭遇すると判断がゆらいでしまうってことなんだろうな・・・キカイダーの描写からは、こんなふうに解釈できそうです。
だから、躊躇なく攻撃することができなくなって、そこがキカイダーの機械としての弱みになっているんだろうな。
さて。ここからがポイントです。こころの理論に触れたことがある人はそれを頭に思い浮かべてください。
キカイダーには感情はないんだけど、彼のゆらいでいる行動をみて、周りの人たちはキカイダーを大切に扱うようになるんだ。
キカイダーがヒロインを守る場面があるんだけど、彼の行動は“守れ”という命令と良心回路に従って取られているものです。
その行動をみて、ヒロインは心を動かされたり、涙を見せたりするんです。
ということは、感情ってものは、決して相手の中にあるというわけではなくって、相手の行動を見ているこちら側の意味の投げかけで成り立っていると言えないだろうか?
感情とは意識の外側に客観としてあるわけではなくって、相互の関わり合いの中で、お互いの間に生み出されていくというニュアンスです。
現象学的に概念化すると、「感情は相互主観的に構成されている」と表現できるかもしれない。
僕は今ロビっていうロボットを作っているんだけど、もちろんロビには感情はありません。でもたぶん、僕はロビの行動をみて微笑んだり癒されたりするでしょう。
そのことを起こす肝は、ロビが人の形をしていて、愛くるしい動きをして、ピカチュウの声優さんの声でしゃべるからというところなのだろうな。
そのように、ロビはそれを見ている人間が意味を投げかけやすい格好をして仕草をするからこそ、微笑んだり癒されたりするのだろうな。
ロビの開発者である高橋さんは、ある講演で「みなさんsiriにあんまり話しかけたりしないでしょ?それは人の形をしてないからですよ。僕はスマホサイズのロボットを開発しています」っていってたけど、それって、意味は相互主観的に成り立つという現実を踏まえているから、理にかなっているんだろうな。
ということで、こうした現象学の他者(他我)経験の分析を紹介している、新田先生の「現象学とは何か」っていう本を読むことにします。
あ。なんとかキカイダーを僕の文脈に基付けることができたぞw
いやあ。キカイダーはいろいろ考えれるから面白いな。
まず、心をどうとらえるか。
心だと概念的にあやふやだから、少し定義をしよう。
心は目に見えるものではないから、実在物とは言えないよね。ということは、心には目に見えないという特徴がある。目に見えないけど、僕たちは人にそれがあることを疑っていない。実在的でないということは外的に存在していないということだから、その反対語として内在的という表現ができるだろう。つまり、心には「内在的な疑えなさがある」という特徴があるんだ。
内在的な疑えなさをもつものといえば、もっと広い意味では意識全般とも表現できるだろうな。意識って言葉だと「気づいているもの」だけに限定されてしまう。意識に気づかれていない部分も、、内在的な疑えなさを持っているだろうな。いわゆる無意識ってやつだ。
心とは、「意識的であれ無意識的であれ、内在的な疑えなさを持つものに含まれている」、といえるだろう(あ。同語反復w)
内在的な疑えなさ=心かといったらそういうわけでもないだろう。内在的な疑えなさの中には、推論の能力もあれば判断の能力もある。推論=心とすると、ちょっと違和感を感じてしまうだろう。心という言葉から思い浮かぶことを想像変容させてみると、いろんな特徴が出てくる。一つには、温かみを感じるもの、または、人を思いやること、などなど。どうやら、心という言葉は、感情に関係があるらしい。そして、人を思いやることということであるのなら、推論の能力とも被っている。単に感情的に怒りまくってる人は心ある人とは言えないし、怒りの感情をぶちまけいtた時に相手がいやな気分になってしまったらってことを考えて、怒りを封じ込める人こそ、心のある人なのだろう。
つまり、心とは「内在的に疑えないものであり、感情に基づいて推論をする能力」と表現できそう(でも、感情に基づいているかどうかについては注意が必要。不健康な推論が感情を作り上げる場合もあるから)。
さて。キカイダーに心はあるだろうか?
やっぱアレかなぁ。。。
日本の特撮ものは、おとぎ話を読み解くような態度で見ないと楽しめないってことかなぁ。。。
ロボものSFとして今年はロボコップあったけど、あっちは主役の心の動きやストーリーの運び方にしても、“さもありなん”という納得感があった。しかし、キカイダーはつっこみどころが多すぎて、向こうの映画のノリで見るとがっくりしてしまうかも。
でも、比喩と隠喩で捉えれば、それなりに面白味は感じられるだろうな。。。
“比喩や隠喩”・・・これこそ、この映画を読み解くカギなのかもしれない。。。
キカイダーって、ロボだから心がないんだ。でも、良心回路ってのが内蔵されているから、判断にゆらぎが出てしまう。
「良心回路=心」かっていったらそういうわけでもなさそうで、キカイダー役の人は終始無機質、無感動な演技を続けていた。
ということは、良心回路ってのは機械に感情を持たせる回路というわけではなくって、きっと善悪の基準が列挙されていて、その基準にそぐわないような出来事に遭遇すると判断がゆらいでしまうってことなんだろうな・・・キカイダーの描写からは、こんなふうに解釈できそうです。
だから、躊躇なく攻撃することができなくなって、そこがキカイダーの機械としての弱みになっているんだろうな。
さて。ここからがポイントです。こころの理論に触れたことがある人はそれを頭に思い浮かべてください。
キカイダーには感情はないんだけど、彼のゆらいでいる行動をみて、周りの人たちはキカイダーを大切に扱うようになるんだ。
キカイダーがヒロインを守る場面があるんだけど、彼の行動は“守れ”という命令と良心回路に従って取られているものです。
その行動をみて、ヒロインは心を動かされたり、涙を見せたりするんです。
ということは、感情ってものは、決して相手の中にあるというわけではなくって、相手の行動を見ているこちら側の意味の投げかけで成り立っていると言えないだろうか?
感情とは意識の外側に客観としてあるわけではなくって、相互の関わり合いの中で、お互いの間に生み出されていくというニュアンスです。
現象学的に概念化すると、「感情は相互主観的に構成されている」と表現できるかもしれない。
僕は今ロビっていうロボットを作っているんだけど、もちろんロビには感情はありません。でもたぶん、僕はロビの行動をみて微笑んだり癒されたりするでしょう。
そのことを起こす肝は、ロビが人の形をしていて、愛くるしい動きをして、ピカチュウの声優さんの声でしゃべるからというところなのだろうな。
そのように、ロビはそれを見ている人間が意味を投げかけやすい格好をして仕草をするからこそ、微笑んだり癒されたりするのだろうな。
ロビの開発者である高橋さんは、ある講演で「みなさんsiriにあんまり話しかけたりしないでしょ?それは人の形をしてないからですよ。僕はスマホサイズのロボットを開発しています」っていってたけど、それって、意味は相互主観的に成り立つという現実を踏まえているから、理にかなっているんだろうな。
ということで、こうした現象学の他者(他我)経験の分析を紹介している、新田先生の「現象学とは何か」っていう本を読むことにします。
あ。なんとかキカイダーを僕の文脈に基付けることができたぞw
いやあ。キカイダーはいろいろ考えれるから面白いな。
まず、心をどうとらえるか。
心だと概念的にあやふやだから、少し定義をしよう。
心は目に見えるものではないから、実在物とは言えないよね。ということは、心には目に見えないという特徴がある。目に見えないけど、僕たちは人にそれがあることを疑っていない。実在的でないということは外的に存在していないということだから、その反対語として内在的という表現ができるだろう。つまり、心には「内在的な疑えなさがある」という特徴があるんだ。
内在的な疑えなさをもつものといえば、もっと広い意味では意識全般とも表現できるだろうな。意識って言葉だと「気づいているもの」だけに限定されてしまう。意識に気づかれていない部分も、、内在的な疑えなさを持っているだろうな。いわゆる無意識ってやつだ。
心とは、「意識的であれ無意識的であれ、内在的な疑えなさを持つものに含まれている」、といえるだろう(あ。同語反復w)
内在的な疑えなさ=心かといったらそういうわけでもないだろう。内在的な疑えなさの中には、推論の能力もあれば判断の能力もある。推論=心とすると、ちょっと違和感を感じてしまうだろう。心という言葉から思い浮かぶことを想像変容させてみると、いろんな特徴が出てくる。一つには、温かみを感じるもの、または、人を思いやること、などなど。どうやら、心という言葉は、感情に関係があるらしい。そして、人を思いやることということであるのなら、推論の能力とも被っている。単に感情的に怒りまくってる人は心ある人とは言えないし、怒りの感情をぶちまけいtた時に相手がいやな気分になってしまったらってことを考えて、怒りを封じ込める人こそ、心のある人なのだろう。
つまり、心とは「内在的に疑えないものであり、感情に基づいて推論をする能力」と表現できそう(でも、感情に基づいているかどうかについては注意が必要。不健康な推論が感情を作り上げる場合もあるから)。
さて。キカイダーに心はあるだろうか?