“信じる”について。

“信じる”について。

あるミーティングに参加しました。

テーマは“信じる”についてです。

参加しているそれぞれの人が、自分自身の“信じる”について語っていきます。
ある人は「何も信じられない」といい、ある人は「私は人を信用しているんです」といいます。
信仰を持っている人は、その信仰を信じるべき道として語ります。
自分自身を信用するという人もいます。
それは、人それぞれの思いのようなものなので、僕はそのことに対して、なにもいえません。
「そうっすか」くらいしか言いようがないのですw

“信じる”ということは、それが信条である以上否定も肯定もできないし、「そうっすか」としか言いようのないものならば、このことに対して僕たちは論じることはできなくなってしまいます。

論じだすと対立して、どっちが正しくてどっちが正しくないか、みたいな話になってしまう。

そこで、“信じる”ということに対して、語ることのできる糸口がないか探ってみます。



“信じる”ということには、人を信じる、自分を信じる、愛を信じる、友情を信じる・・・というように、いくつもの信じるべき対象があるようです。
“~を信じる”というように、信じるべき対象があって、それに対して自分自身が信じるという行為を投げ入れていく
という、ちょっと能動的な行いのようです。

能動的な行いということは、恣意的でもあるし、その人とその人によって変わってくるものだから、何を信じるかはひとそれぞれで、到底一つの答えは導けないように思えます。

では、視点を少し変えて、時間を軸に考えてみたらどうでしょうか?

上で述べた“信じる”には、ある特徴があります。

それは、時間的にまだ訪れていない未来をさしているという点です。

まだ訪れていない未来に対して、「それが起こればいいなぁ。」という願望を投げ入れているといえるでしょう。
人や自分や愛や友情にしても、それが次に訪れる現在においては裏切られるかもしれません。
“信じる”は未来に対する願望のようなものだから、常に不確定な揺らぎが伴っています。

では、時間的な現在においての“信じる”はどうでしょうか?

現在とは、いま・ここで起こっている出来事のことだから、それは不在に対する願望とはいえません。
現在に対する信じるとは、どちらかというと不在に対する投げかけではなく、既に起こっていることを認めざるを得ないような、“引き受け”とか“了解”のニュアンスになるでしょう。
現在においての“信じる”とは、こちらの恣意性を無視して僕たちに襲い掛かってきます。
僕がその出来事を信じたくなくても、そうした思いは徹底的に無視して訪れてしまいます。
ですから、現在に起こっている“信じる”とは、ほぼ強制的なものであり、無慈悲です。

“信じる”を、時間的な現在にあるもっと現象レベルにさげてみると、“疑えない”といえそうです。
白色が白色であり、ざらざらしたものがざらざらしたものであり、風の強さが不確定な予兆を誘い出すような感覚とかそうしたものは、疑いようがありません。
たとえその体験が、客観的に“真”と信じ込まされている世界とずれてしまっていたとしても、既に世界がそのように体験されている以上、そうした感覚は疑いようがありません。

現在においての“信じる”とは、このように強制的なものですが、では、過去においての“信じる”とはどうでしょううか?

既に過ぎ去ってしまった過去においての“信じる”です。
過去については、僕たちは少し特権的な立場にいます。
なぜ特権的といえるかというと、僕たちは過去に意味を与えることができるからです。
もちろん、過去の出来事を思い出したとして、その想起の内容そのものは疑えないものでしょう。
たとえば、過去経験した白色の白さとか、雰囲気とか、においの感覚とか、そうしたものの想起の感覚内容そのものは疑えないものだといえます。
しかし、過去の出来事は、そのものの現在おかれている状況において、さまざまに意味を変えていきます。
その出来事が目も背けたくなるほどの不幸なものであったとしても、そのものが生きている現においてはとても意味があることなのかもしれません。
人や自分や愛や友情にしても、過ぎ去った現在においては“信じる”とこができなかったとしても、次にやってくる現在においては“引き受け”や“了解”の可能性を持っています。


・・・たとえば・・・例のNHKうつ病特番において・・・その番組に登場するイギリス人のうつ病患者は、その人の過去の出来事に対して不健康な意味を投げ入れ、信じることができないものに変えていました。
そのイギリス人は離婚経験がある人のようで、自分の娘は離婚した妻のもとに預けられています。
そして、実際は毎週娘に会うことが許されているにもかかわらず、このイギリス人は、彼が生きている現在において「私は娘に会えていない。この先もずっと会えない。」という現実に妥当しないし意味を投げかけ、過ぎ去った現在を信じられないような不幸な出来事に変えてしまっていたのです。

ここで気をつけなければならないのは、価値観に陥らないことです。
「この先も娘にずっと会えない。」という意味の投げかけは現実に妥当しないものだから悪い考えであり、非本来的なものであり、治さなければならないもので、「実際は会えている。」という意味の投げかけは現実と一致しているから良い、本来的な考えである、という風に価値評価を与えて判断してはならないということです。
なぜ、強く“~ならない”と表現できるかというと、彼が実際に生きていた現在において行われた不健康な意味の投げかけは、意識の恣意性を乗り越えてやってくるような疑えなさであるからです。
白色が白いように、ざらざらした感じがざらざらしているように、こちらの思いや願いを徹底的に無視して襲い掛かってくるような疑えなさを伴っているからです。
疑えないような現在の体験を価値評価にしたがって判断するのは無意味です・・・っていうか、そうした体験は価値評価を使って判断のしようがない・・・やりようがない・・・できない。。。
白色は白色と感じているから白色なのであり、白色に黒色を感じてしまったらそれは白色ではなく黒色なのであり、その体験そのものは疑いようがありません。

ですので、そうした価値評価を抜きにすると、イギリス人の彼は不健康な意味の投げ入れをしなければならない現在を体験しているのだといえそうです。

だがしかし、僕たちは過去の経験に対して少し特権的な立場にいます。
それは、自由に意味を投げ入れることができるという特権性です。
このイギリス人の彼は、セラピーの中にセラピストに不健康な考えを論駁され、出来事に対する意味の投げ入れを変えていきます。
彼の過去の経験は、徐々に“引き受け”や“了解”できるものに変容されていくわけです。






そうしたわけで、未来に対する“信じる”が裏切られたり、現在が無慈悲な疑えなさを伴って襲い掛かってきても全然大丈夫です。




僕たちは考えることができます。

僕たちは考えて、意味を使うことができます。

僕たちは考えて、意味を使い、信じられないことを健康的な信じられる出来事に変えることもできます。




そして。
この文章を書いている間に僕が聞いていた音楽が「君に、胸キュン。」であったということは、誰も疑うことができないような絶対的な事実なのですw