原ローワン性。

※こんな文章はテロだwww

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ローワン・アトキンソンいいなぁ。こんな人間になりたいなぁ。瀕死の逆境でもローワンのような顔芸ができたらかっこいいだろうなぁ。ローワンになりたいなぁ。ローワンになりたいなぁ。僕はローワンになれるだろうか?信じれば夢は叶うというし、ローワンになりたいという純粋な気持ちを持っていれば僕はローワンになれるのです。でも、なんの努力もしないでローワンになることはできないだろうな。ローワンになるためにどんな努力をしたらいいのだろうか?

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きっと、知的学習と体験学習の二つが大切になるだろうな。世の中には「知的学習なんて頭が固くなるだけだ!体験学習こそが真実で、感とセンスが良いローワンを生み出すんだ!」と語る人もいるだろう。でもそれは、主義や主張としては立派かもしれないけど、現実的ではないだろうな。現実ローワンとはいえないだろう。むしろ理念ローワンだ。理念ローワンだとしても、本人がそれで生きていくというのなら、誰も文句はいえないだろう。きっと、良い変顔ができるのであろう。だがしかし、その変顔というものは、その人がその体験の中だけでつかみ取られた個的な変顔であって、決して共有可能なものではないだろう。芸ではあるけどプロではない。だから、もしプロとしてのローワン、いや、プロローワンを目指すのならば、共有可能な世界像を身につける必要があるだろう。自分の体験的なローワンを他者に向かってプロトコル変換するための世界像だ。そうした世界像を身につけるためにも、やはり知的学習は必要なのだ。


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そして、知的学習も二つの道に分かれるのだ。ひとつは、客観的な事実を学ぶ道。こちらはいわゆる客観科学的な道なのでわかりやすいだろう。再現可能性と反証可能性を備えたローワンの性質と特徴を学べばいいのだから、小学校からやってきた勉強のやり方で満足できるだろう。だがしかし、この道こそ体験ローワンが攻撃すべき道であって、危険な道なのだ。というのも、無反省にこの道を進と教条化してしまうのだ。「再現可能、反証可能なローワンこそ真実のローワンで、その性質をそなえないローワンは偽ローワンだ!」という理念に陥ってしまうのだ。ここでも理念ローワンになってしまう。。。体験学習をしても、事実を学ぶ道を歩んでも理念ローワンに陥ってしまう。。。ここで大切な道が知的学習のもう一つの道、すなわち、現象学的反省の道だ。実はこの道こそ、客観科学に踏み潰され、ポストモダンに相対化された道なのだ。科学や(理念としての)宗教を解体し、その発生の原現場に立ち戻らせてくれる道なのだ。つまり、原ローワンに出会える道なのだ。現象学的反省の道はとても簡単で、意識にとっての疑えなさの強弱を探っていくという道だ。(この“疑えなさの強弱”は明証性と概念化される・・・横文字でいうとエビデンスのことだ・・・医療者がよく使うエビデンスのことだ。この場合、質的エビデンスとでもいうのが適切か)

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疑えなさを頼りに、その成り立ちを探っていくのが現象学的反省の道だ。例えば、ローワンの変顔があるとしよう。客観科学の道でローワンの変顔を学ぶとするならば、目の位置や顔の角度を把握して、それと同じような顔を作るように求めるだろう。だがしかし、そうした客観科学的ローワンができたところで、そこにあのローワン的なおもしろさやおかしみは生まれるだろうか?量的エビデンスは満たされるだろうが、質的エビデンスはどうだろうか?

そこで、現象学的反省の出番だ。あなたが感じているローワンのローワンらしさを思い浮かべて、「これこそローワンだ!」というローワンの疑えなさを取り出してみよう。つまり、ローワンの質的エビデンスを取り出してみよう。その場合、決して目の位置や顔の角度には還元され得ない、独特の空気感や間が取り出されるのではないだろうか?

絶対的に疑うことができないローワンらしさである原ローワン性に立ち戻り(現象学的反省の道)、そこから事実ローワンの成り立ちを探り(現象学的基礎付けによる客観的事実を探る道)、それを体験学習することよって、良いローワンになれるというものだろう。


これらの反省によって、ローワンになりたい僕はなにをするべきか完全に知ることができた!まずはローワンのビデオを観まくるんだ!(客観科学の道)、そして、どんなものが疑い得ないローワンの性質であるのかよく考えるんだ!(現象学的反省の道)、そして、ローワンの練習をすることで(体験学習)、良いローワンのなれるのだ!