走者の由縁(夢想の責務‐2)。

ランナーは“ランナー”であるからランナーなのではない。
ランナーはランナーであるから“ランナー”なのだ。


・・・。


電車が。

止まっている。


・・・。


なぜなら、節電をする必要があるからだ。


いや。


Twitter上に流れるどんなデマや嘘よりも、僕たちの日常に圧倒的なリアリティをもって襲いかかってくるのは、「節電したほうが良い」という現実感覚だ。

なぜ節電するのかというと、電気が足りなくなる恐れがあるからであり、電気が足りなくなると困るからだ。


・・・。


今日は計画停電はなかったけれど、僕の住んでいる地域の電車は節電のために数時間止まりました。
それは帰宅時間と重なったので、みんな大弱りです。
大弱ってる職員も、みんなそれなりに帰宅の手段を見つけたようなので、僕も帰宅することにしました。

僕は車です。

いや。

僕は人間なので車ではないのですが、“車で通勤している”という意味で、僕は車です。

車で帰宅していると、道端には徒歩で帰宅している人がたくさんいます。

みんな、携帯を操作しながら、とぼとぼと、しずしずと、帰路についています。




と。




ランナーがいる。

僕の車の横を走っている人がいる。

その人はスーツ姿の中年男性で、おそらく会社からの帰宅中なのだろう。

その男性は走っているのです。

もちろん、「トイレに行きたい」とか「敵から逃げている」とか「止まると死ぬ」とか、それ相応の合理的な理由は考えられると思うのですが、これはアレだ、きっと「その人の現在を規定している過去からの視線をかわす」ために逃げているのだ。

きっとその会社員には、妻がいて大学に入る息子と高校2年生の娘がいるのだろう。息子はあまり成績の良いほうではないのだが、そこそこのやる気とそこそこの器量で志望校の次に行きたかった大学に受かったのだ。そして、今年の4月から大学に進学するのだ。そして、娘は口を聞いてくれないのだ。いや。聞いてはくれるけど、それはそこそこのやる気とそこそこの器量で会話をするので、父親としては娘がどう生きているのかまるでわからない。それでも妻はそれなりなので、彼の家庭はそれなりのやる気と器量のまとまりをみせているのだ。つまり。どこにも問題はないのだ。どこにも問題はないのだけれど、カタストロフィーはやってくるのだ。地面は揺れるのだ。そして、多くの人々が想像不可能な災害にあわれて、日常はいっきに崩壊したのだ。日常は一気に崩壊したのだが、彼の日常は崩れなかった。ガソリンは品切れになって、食料の買い占めが起こり、電車は止まるのだが、彼の日常はそれなりのやる気とそれなりの器量で続いていた。つまり、息子は大学に進学することになっており、娘は何を考えているか分からない。妻はそれなりで会社もそれなりに回っている。大カタストロフィーが起きたにも関わらず、彼の所属している日常は恐ろしいことに何も変化しないまま続いているのだ。そして彼は、TVやインターネットなどで、様々な情報を入手したのだ。そして、彼はこう考える。「多くの人の日常は無情にも崩壊した。しかし、私の日常は非情にも継続されている。これでいいのか?」彼はそこそこのやる気とそこそこの器量で構築された日常が淡々と続いていくことに恐ろしさを感じ、彼自らその日常を壊したいという衝動にかられたのだ。だがしかし、死んではいけない。カタストロフィーのまっただ中にある人も死んではいけない。すでに死んでしまった人も死んではいけない。だから。彼は、「走ろう」と思ったのだ。この日常を壊すために、徒歩で帰宅せざるをえなくなった帰路を、走って帰宅することにしたのだ。それは、そこそこの気力とそこそこの器量に対する彼の贖罪の念であり、それが崩壊するであろうという予兆の感覚なのだ。




だから。




彼は走るのだ。



・・・。




ランナーは“ランナー”という概念の持っている「走る人」という意味に規定されてランナーであるのではない。
そうではなく、ランナーは実際に“走っている”という現実を生きているからこそランナーなのだ。


なので。

実際に“走っている”という現実を生きている彼はランナーなのだ。