千ヶ夢淵。

今朝見た巨大な夢について。




僕は何らかの用事で前の職場に行く。
そこでは、この日も自動機械のように寸劇的日常が送られていた。

いつものように朝礼があり、朝礼では理事長が職員の非難をする。その後のラウンドでも理事長は職員の非難をしている。理事長の横にはお供の職員がいる。彼は、「私の人生は理事長と共にある」といっていた人だ。彼は理事長を慕っているのだけど、この日の攻撃対象は彼であり、理事長は彼に向かっていつもと代わり映えのしない批判をする。それは、「あなたの今のあり方は幼い頃の体験に規定されていて、母親から離れることができていないからダメなんだ」といった内容。なにがどうダメなのかはわからないけど、僕には理事長が自分自身のコンプレックスを彼に投影しているだけのように思えて仕方がない。いちおう精神科医を名乗っているのに、自分の行動を把握できないというのは皮肉なものだ。それ以上に驚異なのは、理事長のお供の彼だ。彼は理事長から自慰行為的な非難を受けても、それを了解し、受け入れている。・・・彼のありようは理事長に決められているようだ。。。

この時点で僕は、半眠半覚醒の状態となり、「この閉じられたコミュニティの中では、今日も安全に問題が作られ、今日も安全に解決されていくのだな。彼らが老人(理事長)との共依存的な関係から逃れられる日は来るのだろうか?いや、来ないだろう。何故なら、共依存的な関係を続けていたほうが彼らに取っても安全だからだ。もし共依存的な関係が崩れる可能性があるのなら、それはなんらかのカタストロフィーが起こったときだろう。それは恐らく理事長の死か病院の閉鎖だろう。僕は今、このコミュニティの外部にいるからこそこうした構造がわかるのかもしれない。この職場に勤めていた頃は、僕もまた共依存的な関係にあり、理事長の自慰行為的寸劇に巻き込まれていたのだろう」と思った。


その後再び眠りに就き、夢の続きをみる。


場面は変わり、僕は河原にいる。


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その河原は、日常ではない。
その河原は、幽玄であり厳かであり穏やかであり緩やかで静かで不気味だ。
その河原は、山間部にあるタイプだ。


山間部タイプの河原というものは平野の河原と違い、川幅は狭く流れが急でゴツゴツした岩がたくさんあるものである。
この夢の河原も山間部タイプのものであり、河原は山の木々に囲まれて流れている。ただし、河原の流れは急ではなく、とても穏やかだ(山間部には、この夢の河原のように、一時的に流れが緩やかになる箇所があるものなのです)。そして、川幅はとても広く長い直線だ。これではもう平野の川と変わらないのだけど、木々に囲まれており、ゴツゴツした岩があり、その川の澄度は紛れもなく山間部タイプのものだ。

穏やかで川幅が広く、長い直線の澄んだこの河原の川縁に僕は立っている。ゴツゴツした岩が飛び飛びに向こう岸まで続いていて、僕はこの岩々を渡って、川の真ん中辺りに辿り着く。そこから川の上流を眺めると、川の遥か上流は暗がりの中に消えている。恐らくあの奥にこの川の源流があるのだろう。そのように思い描きながら、僕はしばらく川の真ん中辺りの岩の上に佇んでいた。しばらくすると、川の向こう岸に職場の元同僚がいる。僕は彼らの元に行き、どうでもいい雑談をする。すると、ある職員が僕の元に駆けつけ、「理事長のが呼んでいるからきてくれ」と。どうやら理事長は僕に教えたいことがあるらしい。しかし、僕はこの閉塞的コミュニティの人間ではない。僕は、「なにいってんですか。僕はもうここの職員じゃないんですよ。呼ばれて行くわけがないじゃないですか。いくら教えたいって言ったって、他人にものを頼むときには礼儀作法があると思います。まぁ、ひょっとしたら理事長の前を通り過ぎることもあるかもしれません。でも、気づいても僕はあからさまに無視しますけどw」と告げる。伝令の職員は、理事長は自分の吸っていたタバコの火を僕の車のドアに押しつけて消していたと教えてくれた。僕は、「ああ。所詮はその程度の人間なのだな」と呆れかえった。





<感想>
前半部分では怒り、憤り、構造に絡みとられることの虚しさなどを感じた。
河原の部分では、神聖で特別な場所に踏み入った感じ。岩場から水源を眺めていたときには、恐れ多さとともに、未知の不気味さも感じた。何かが起こるんじゃないかという期待感もあった。
最後の部分では、“別離”がテーマになっていると思う。最近父親が死ぬ夢をみたが、自分を規定するなにものかから別れ、そのものを分別のある視点で評価するということなのだと思う。今回は権力者との別離であり、権力者が神聖な場所に入ってくることを拒んでいるところに実存的な隠喩が感じられる。