現実の感覚は生み出されている(夢想の責務‐3)。

Twitterにはいろんな人のつぶやきが散在しています。

それは、往路で耳を済ませて行き交う人々の会話に耳を傾けている感じです。

おおよそ自分とは関係のない人々のつぶやきが、自分自身の生きている現在によって急に生気付けられる瞬間があります。
なんの脈略もない他人のつぶやきが、急に自分にとって意味のある言葉になる瞬間があります。

たぶん、この“生成されていく感じ”が、僕にとってのTwitterの醍醐味になります。
(※ゆえに、情報収集の為のツールということではない)


さて。

例のカタストロフィー以降、Twitterの中の現実感覚がおかしくなっている。
つまり、人の不安を煽るようなデマや噂話が拡散しており、何が現実なのかわからなくなってしまっています。
そもそもTwitterは文字情報の共有が基本なので、その現実感はその人がそのツイートにどれだけ信憑性を感じられるかにかかっているといえます。
しかし、最近のツイートは、僕ら自身の中にその信憑性を確かめるべき基盤がないようなものが多くなっています。
そうしたホントかウソかわからない情報にさらされると、不安になるし、踊らされるし、あんましよろしくない。


なので。

Twitterを覗くときは、自分の中でひとつの公準を打ち立てることにしました。


それは以下の通り。









Twitter閲覧の為の第一公準

「現実に妥当するものであろうとなかろうと、未来を感じされるツイートはすべて現実のものであるとみなす。」


自分の置かれている現在から相関的考えて、未来を感じさせるようなツイートについては無条件に現実のものとみなして取り入れます。
その根拠は、未来を感じさせるツイートならば、自分自身が予兆感に包まれて「何かをめがけよう」という気分になるからです。


そして。


Twitter閲覧の為の第二公準

「不安感を感じさせるツイートは、そのソースがはっきりするまで“現実のもの”とはみなさず、批判的に吟味する。」

自分の置かれている現在から相関的に考えて、不安感を感じさせるようなツイートについては無条件に現実のものとはみなさず、出処を探って吟味します。
その根拠は、不安なツイートを無条件に受け入れると、自分自身が諦念感に包まれて「何もしたくない」という気分になるからです。


そして、この二つの公準を基礎付けているものは、「人は未来志向的にある」という命題です。
人によっては、「この命題はひとつの信念のようなもので、基礎づけの原理とは言い難い」と言うかもしれませんが、僕にはちゃんと現実経験から原理的なものとして証明できる気がします。

ひょっとしたら“未来”という言葉を取り払って、「人は志向的である」と表現するのであればより原理に近いのかもしれません。




どちらにしろ、おかしくなった現実感覚をドライブするための技術として、僕はこの二つの公準と根本的な命題を頼りにしてみます。