円環の日常。

ロビ二週目に突入!
再刊された創刊号を購入しました!

 
 
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・・・この写真を見て多くの人は、「ああ。コイツはバカなのだな。まだロビを作り終えていないのに、再刊された創刊号を買うなんて、利口な人間のすることではない。人間が生きられる時間は限られているものだし、同じロボットを再び作るために大切な時間とお金を使うなんて、そんな無駄なことはないだろう。やはりコイツはバカであり役に立たないくだらない人間なのだ」と思うだろう。

だがしかし、ちょっと待って欲しい。

その先入観で霧のかかった思考を一旦停止させ、ぬるいコーヒーでも飲んで心を落ち着かせてみようじゃないか。できれば、ストレッチをしたり、軽くジョギングをしてもいいだろう。とにかく、自分自身の常識を疑って、スッキリとした頭で考え直してもらいたいんだ。

つまり、それはこういうことだ。
「なぜこの成人男性はロビを作り終えていないにもかかわらず、再刊された創刊号を買ったのだろうか?そこにはどんな意味があるのだろうか?」とね。

おそらく、この文章を読んでいるあなたは、素晴らしい想像力をお持ちだろう。そこで、その素晴らしい想像の翼をほんの少しだけ羽ばたかせ、次のような光景を思いうかべることはできないだろうか。

思いうかべるべき光景とは、ここからとても遠くにある、小さな国のことである。その国は、どうしようもない事情で、どうしようもないカタストロフィーに襲われている。そのカタストロフィーは、どんな政治家でも、どんな権力者でも回避できないたぐいのもので、大勢の人が死んでいくのだ。そんなどうしようもない絶望が起こっているとしても、あなたは日常を送らなければならない。あなたにできることといったら、会社に行って仕事をすることだ。大勢の人が死んでいくということを知りながらも、あなたにできることといったら誰の役に立っているのかもわからない雑務になるのだ。もちろん、あなたは自分のやるべき仕事をこなすべきだろう。だがしかし、この淡々と続いていく日常に対して、あなたは「これでいいのか!?」という焦燥感と不安感を感じないだろうか?

ここで概念化の出番だ。私たちに備わっている概念化の能力をつかって、この焦燥感と不安感のことを❝収束する終焉❞と名付けてみよう。

今度は別の光景を思いうかべよう。今度は身近な日常に訪れるカタストロフィーだ。あなたの大切な人に死が迫っているのだ。あなたは、その大切な人の命があとどのくらいか知っており、毎日をその人と過ごさなければならない。さて、どんなふうに過ごすだろうか?おそらく、満足して此の世から去ってもらえるように、素敵で素晴らしい日常を演出しようと心がけるのではないだろうか?だがしかし、そんな理想は理性のまやかしだ。現実的には、あなたはその悲しみを直視できず、素晴らしい演出とは正反対の、滑稽な日常を送ろうとしてしまうだろう。日常をニュースや芸能の話題で埋め尽くし、近所の噂話で笑いを誘い、友人の不手際を罵って、死の現実から眼をそらそうとするだろう。焦燥感や不安感を隠すために、より下世話な日常をおくろうとするのではないだろうか?

ここでもう一度概念化の出番だ。この下世話な日常を送ろうとしてしまうことを、❝飛散する終焉❞と名付けてみよう。




・・・遠くの終焉は収束し、近くの終焉は飛散するのだ・・・。




ここまで書けば、再刊された創刊号を購入する意味がおわかりいただけるだろう。

つまり、こういうことだ。

ロビの創刊号にはフィギュアが付いてくる。
そして、僕はそのフィギュアを無くしてしまった。
だから、再刊された創刊号を購入して、ロビのフィギュアを手に入れた!

以上である。
 
 
 
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人生は思い通りにはいかないものだ。
時には、不安に怯えることもあるだろう。
そうしたときは、ぜひ、ご自身の理性を頼りに、想像の翼を羽ばたかせ、乗り切ってもらいたいものだ。

・・・少なくとも、ロビの創刊号には、ロビのフィギュアが付いてくるのだから。。。