複合体連関体。

ですので。
簡単にいえばNSPが7京になっていたということなんです。

そして。
NSPとは妬みと嫉みのポイントのことであって、「人ガ人デアル理由」でもあるのです。

・・・。

今日はお休みだったのです。

昨日は当直の明けで、朝帰ってきて夜まで寝て、夜中は4時頃まで満喫にいました。
満喫で、「スティール・ボール・ラン」をずっと読んでたんです。

僕は「ジョジョの奇妙な冒険」が大好きです。
初めて読んだのは、小学校低学年の頃だと思います。
まだ生きていた死んだおばあちゃんと一緒に、隣町の歯科に行ったときのことだと思います。
僕の実家は田舎なので、歯科は近くにありません。
歯科に行くにはバスに乗って30分くらい先の栄えている隣町に行かなければなりません。

・・・正確には隣の隣町なので隣町ではないのですが、それはここではどうでも良いことです。。。

本当は隣町ではない隣町は、僕の住む町とは違ってイトーヨーカ堂があったりおもちゃ屋さんがあったり本屋さんがあったりします。
歯医者は嫌いだけど、おもちゃ屋さんや本屋さんに寄って、生きていた死んだおばあちゃんの機嫌が良ければなにか買ってもらえるから、うれしくってついて行きました。

で。
本屋でたまたま手に取った「ジョジョの奇妙な冒険」を買ってもらいました。
バスが来るまでバス停で読んでいたんですが、僕は正直、「これは読んじゃあいけない本なんじゃないか?」って思ったんです。
だって、人が死ぬし血が出るしグロいし、最初の生け贄のシーンの女性がエロくって、読んでることを生きていた死んだおばあちゃんにバレちゃあいけないって思ったんです。
でも、物語は謎で奇妙で面白くって、隣町に幾たびに買ってもらっていました。

で。
僕にとっては、ジョジョは第2部までで、そっから先はあまりのめり込めなかったんですが、大学卒業してから3部、4部と読んで、最近第6部まで読みました。

僕は。
この物語を読む度に。
作者は「人生に対する確信」みたいなものを握っているんじゃないか?って感じていました。
超越的な生き物に肉体一つで挑んでいく主人公(主にジョナサンやジョセフだけど)に、「人が生きるということはこういうことなんだ」ってのを作者は少年少女に伝えたいと思っているんじゃないかって感じていたんです。

でも。
昨日はじめて「スティール・ボール・ラン」を読んで、どうやらそうじゃないってのが感じられました。
「人生に対する確信」があって、それを人に伝えたいんじゃないんじゃないか?
そうじゃなくって、作者もとても迷いながら物語を書いてるんじゃないか?って思ったんです。
っていうのも、主人公のジャイロも、あんなに確信的な行動をとっているようにみえて、けっこう迷いながら敵と戦っているんです。
「回転」の達人でありながらも、自分のありようはこれでいいのかどうか自問自答しながら先に進もうとしています。
各キャラが自分の信念や信条をぶつけながら思わせぶりな台詞を語っているのですが、たぶん、作者自信の迷いや戸惑いや、そうしたものが現れてるんじゃないのかなぁ。
だから、まぁ、キャラに信念や信条を演じさせてみて、漫画の中で行動させてみて、作者自身がそれを吸収しているというのか。。。

そんなんを思いながら、今日は夕方まで寝ていて、今マックにいます。

目の前に高校生のカップルがいました(今はもういない)。
僕はそのカップルの男性のほうををみて“きめえよ”と感じ、すぐさまそれをツイートしました。
なんだか、NSPが7京になっていたのです。
だからそんな風につぶやいたのですが、“きめえよ”なんていってごめんなさい。
死んだおばあちゃんごめんなさい。

ちょっとあとから考えると、“きめえよ”と思ったことには理由があるんです。
それは、昨日の漫画の作者の人間的な戸惑いと、僕が今読んでいる本の内容に関係があります。

僕はちょうど、「支配的な母性によって手洗い行為が止まらなくなってしまった少年」についての本を読んでいたんです。
その少年は、母親から過保護に育てられて、いろんな“規制”を自分の中にもってしまっていたようです。
「危ない遊びはしてはいけない」「悪いことはしてはいけない」「行儀良くしなければいけない」・・・。
その少年が治療者と「遊び」を通して、手洗い行為に暴発していたアグレッションが健康的な活動性に統合されていくような内容です。

そんなんを読んでいる矢先に、目の前にいるカップルの男性のほうが、まるで母親に甘える子供のような口調と態度で彼女に甘えていたのです。

だから。

僕は。

「おいおい。そんなんは決して健康的な愛情表現じゃなくって、キミの未解決な母親との問題を彼女にぶつけているだけじゃあないのかい?もし、その態度と口調での彼女との関係性を心地よいと感じてしまっているのなら、それは成長することを拒んでいるだけなんじゃあないのかい?」って考えが浮かんで、そんな彼がもし成長していこうとするのなら、きっとそれは大変な道で、きっと挫折や絶望を幾たびか経験しないとならないのだろうなって思って・・・・。
そんなんを思っていたら、なんだかめんどくさくなってしまって、思わず“きめえよ”とつぶやいたのですが。。。

・・・。

でも。
よく考えると。
これってひょっとして、僕の問題なんじゃないか。
僕の未解決の問題を勝手にカップルの男性のほうに投影して、“きめえよ”って思ってるだけじゃないのか。
僕自身が母性から逃れられてなくって、女性に対してそんな風な態度や口調で接することに心地よさを感じてしまってるから、そうした母性と対決することも必要だなって薄々感じてしまっているから、僕はこの男性に対して“きめえよ”って思ってしまったのではないか。


まぁ。
いいやw

ジョジョの作者も揺らぎながら登場人物に行動させているように、僕も揺らぎながらNSPをあげて悪態をついて・・・。

そんなんだw