悠久のお相撲さん。




・・・こうした出来事があったようです。。。



そして。



人間の約74%は、その少年期から青年期において、お相撲さんに憧れるものです。

しっかりとした体格を持ち、俵を何百も持ち上げて、人を自由自在に土俵の外に持ち上げるような力強さを身につけたいと思うものなのです。
ですから人間は、他の人間が砂で作られた円形の舞台の上に立っている姿をみると、「どうにかしてあの立っている人を持ち上げることができないだろうか?百俵の俵を持ち上げるように、人を持ち上げることができないのだろうか?」と思うのです。

多くの人間は、その夢を実現することができずに死ぬのですが、お相撲さんの朗らかな体型が大丈夫な感じになると、相撲部に入る人間もいます。
そうすると、人間を持ち上げたり土俵の外に追い出す練習を何回も何回もするようになるので、その人間は立派な力強さを持つことが出来るのです。

だがしかし、人間には理性がある。

明晰判明な認識を行うための理性というわけではなくて、倫理観や道徳観に照らし合わせて判断を下すということができます。
・・・意識的な判断・・・いや違う・・・人間には、なにか良いものを目掛けようとする“意志”があるのです。

ですから、良いお相撲さんというものは、目の前にある力強さだけでなく、その力強さを人間の幸福の為に使用する「お相撲さん道」というものを目指すようになるのです。
この「お相撲さん道」というものは、自分の力を、むやみに人間を土俵の外に出すために使わないようにするためのものなので、少し形式的なものです。
だがしかし、その形式性というものは堅苦しいものではない。
僕らの実存的な本質規定、実存的な自由を妨げるような堅苦しい実体化した価値評価というわけではありません。
むしろ、お相撲さんがお相撲さんであるための枠組みのようなものです。

僕たちにはリビドーがあるけど、リビドーを単に性欲とするのは不公平だ。
なぜなら、僕らは道端でやりまくらないからだ。
リビドーをもう少し緩やかに「くっつく性質」と表現してみると、それと対になるような「離れる性質」のようなものを僕らは持っているのだろう。
そのことは、おそらく客観科学的な事例を持ち出さずとも、目の前にものがあること、人がいること、世界が現象していることを分析すれば理解できることなのです。

僕の目の前にはノートPCがあります。
僕は今、このノートPCのモニターの画面を見ているけれども、そのときにはモニターの背面は隠れてしまっています。
僕がモニターの背面を見ると、モニターの前面は僕の現在から離れてしまい、モニターの背面が僕の現在にくっついてきます。
僕が生きている現在とは、現在にくっついている場面と、現在から離れている場面が一緒になって、現在になっています。
ノートPCの場合は、現在にくっついているモニターの前面と、現在から離れているモニターの背面とが融合して一つの「ノートPC」を形作っています。

・・・現在には幅があるのだ。。。

僕は判断を下します。
何かを見て、「これはノートPCだ」とか、「これは携帯だ」とか、判断を下します。
その場合、離れています。
例えば携帯の現在にくっついている面だけを見ていては、「これは携帯だなぁ」とは思えません。
現在から離れている部分を引き合いに出してこないことには「これは携帯だ」が成立し得ない。

僕は判断を下します。
何かを見て、「これは良いことだ」とか、「これは悪いことだ」とか、判断を下します。
その場合、離れ離れています。
例えば良いことの現在にくっついている面だけを見ていては、「これは良いことだ」とは思えません。
(・・・例えば、人間が人間の後頭部を何回も何回も鈍器で殴っている場面を見たとき、その現在にくっついている場面だけでなく、現在から離れている(過去に理解している)「人間は人間の後頭部を何回も何回も鈍器で殴ってはいけないものなのだ。」ということを引き合いに出さなければ、現在に起こっていることが良いことか悪いことあんまし理解できないでしょう。だから・・・)
現在から離れている部分を引き合いに出してこないことには「これは良いことだ」が成立し得ない。

そうなると、判断を下すっていうことは、「離れる性質」を利用しているといえそうなのです。

そして、僕は昨日、半年以上切れたままだった風呂場の電球を取り替えたので、風呂場が暗くて不安で、後頭部を知らない人間に鈍器で何回も何回も殴られるのではないか?という不安に苛まれることがなくなったのです。

家族には役割がある。

母親は「くっつく性質」に由縁すると思うのですが、僕はなぜ母親が「くっつく性質」に由縁するのかを証明することができません。
「そんな感じがする」としか表現できないのです。
母性は、受け入れて、受容して、保護する・・・ような気がしますw
・・・母性は現在にくっついている・・・だから感性的であり感覚的であり・・・。


父親は「離れる性質」に由縁すると思うのですが、僕はなぜ父親が「離れる性質」に由縁するのかを証明することができません。
「そんな感じがする」としか表現できないのです。
父性は、突き放して、ルールや規則を決めて、判断をする・・・ような気がします。
・・・父性は現在から離れている・・・だから理性的であり社会的であり・・・。


さて。

人間の約74%は、その少年期から青年期において、お相撲さんに憧れるものです。
お相撲さんのような力強さを手に入れt、人間を砂で作り上げた円形の舞台の上から外のほうへ持ち上げたくなるものなのです。
良いお相撲さんというものは、目の前にある力強さだけでなく、その力強さを人間の幸福の為に使用する「お相撲さん道」というものを目指すようになるのです。
その「お相撲さん道」というものは、お相撲さんがお相撲さんであるための枠組み、つまり、お相撲さんであるためのルールや規則と表現できそうです。
ルールや規則であるということは、それは「離れる性質」に由縁するといえそうです。

そして。

もし。

「離れる性質」が、ルールや規則を決めて判断を下すような理性的・社会的な父性を生み出すといえるのなら、「お相撲さん道」をもった良いお相撲さんというもは、父性に気付いているお相撲さんでなないだろうか?




・・・こんな感じで話を進めると、「運転してはいけない」というルールを破った力士は、「お相撲さん道」に外れる父性に気付いていない力士となるかもしれないけど、僕にはそもそも、「お相撲さんが運転してはいけない」というルール自体が「お相撲さん道」に妥当しているのかなんともいえないから、この力士のことを責めることはできない。。。