絶対絶望相。

意味のつながりは面白いものです。

てんでバラバラに布置されている意味の群れが、不意にまとまりをもって現在に押し寄せてくることがあるのです。

そうしたまとまりをもった意味が押し寄せてくると、僕をこれまで支えていた背景的な意味の群れはバラバラに解体して、現在が不安定になります。

居心地の悪い不安感に襲われる。

そうした不安感を無かったことにしたり、打ち消したりしないように注意しながら、真摯な態度で現実に接していると、別のフェイズ(相)に突入できるときがあります。

こういうときは、あらゆる過去と未来が現在に偏在しだして、お祭騒ぎになる。

・・・平沢氏の歌に「ロタティオン」ってのがあって、それは僕がとても大好きな歌なんだけど、きっとロタティオンっていうのは、そうした意味の解体・再構築みたいな感覚かもしれないな・・・輪廻だし^^

そうしたわけで、僕は年末から現在にかけて、何度目かのロタティオン的な感覚を味わっていました。




昨年は、「脳と人間(計見一雄氏)」の本をしつこいほど読んだってのがまずあります。
現象学関係の本を読んでると“原衝動性”とかいう表現が出てくるけど、それって「漠然とした予感」みたいな感じで説明されてて、なんだかわかったようなわかんないような感じだったんですが、「脳と人間」の中ではそうした衝動性として、「くっつく性質(リビドー的な感じ)」と「はなれる性質(アグレッション的な感じ)」って表現されてて、その感じがわかりやすくって、なんだか原衝動性のニュアンスが腑に落ちた感じがしました。

未来予期にしても、その根っこにある衝動的なものを「くっつく性質」・「はなれる性質」って理解すれば、腑に落ちる感じがします。

そして、リビドーとアグレッションに誘われて、年末の忘年会では「バナナ・マンゴー・ハイスクール」(テレ東の「おねだり!マスカット」の番組内の踊り)をみんなで踊りました。
公私ともどもリビドーとアグレッションが混濁している感じの年末でした。

昨年、ナシア・ガミーって人の「現代精神医学原論」って本を読もうとしたら、この本の中で著者が依って立ってるのがどうもヘーゲルらしい。。。
僕はヘーゲルよくわからないんで、今年はドイツ観念論から始めようと思って、そっち関係の本と併読していました。
・・・ナシア・ガミーって人は、精神医学の現状に対して、疑問に思っているところがあるらしい・・・精神医学が教条主義的に何かの理論にしたがって判断を下すことや、折衷主義的にどこにも判断の根拠を求めないことに疑問を持っているらしい・・・そして、こうしたドグマティックな考えや、あやふやな相対主義に疑問を投げかけて、判断の根拠になる概念そのもの(ああ。うまく表現できない。)についてよく考えてみないとならないってことになったようだ。
主義や主張じゃなくって、原理について考えるっていうのは哲学をするってことで、そのためにヘーゲルの・・・まぁ・・・ようは・・・弁証法的な捉え方なんだけど・・・哲学から始めようってことらしい。



そうこうしているうちに、僕は本屋で「臨床哲学の知 -臨床としての精神病理学のために-」っていう本に出会いました。
木村敏氏の本です。
木村氏の本は「異常の構造」くらいしか読んだことなかったんですが、「臨床哲学の知」は読んでよかったです。
っていうのも、木村氏も精神科医療に疑問をもっているらしいです。
っていうのも、医者が症状だけ診て薬を出しちゃうから、対処療法的になっちゃって、その根っこのところに目が届いていないっていうんです。
そうしたわけで、病気の成り立ちを捉える“病理”について考える必要があるって言うんです。
確かにそのとおりだなーって思うし、薬たくさん出されてぐったりしている患者さんみると、“もっと目を向けるところがあるだろうに”って思えてきます。
そして、病理というところで“自己”についての話になります。
「私は~している」というときの、“私は”っていうのを「主語的な自己」と表現して、“~している”っていうのを「述語的な自己」と表現します。
「主語的な自己」は私自身の同一性に関わるものだからリアリティであるし、「述語的な自己」はその場で起こっている出来事の現実味・彩りに関わることだからアクチュアリティ(現勢的って感じ)であるわけだ。
で、アクチュアルってことは、主語的に私だけっていうわけではなくて、それは私と何かとの「あいだ」で起こっているわけだ。
そうしたわけで、三人称的な「あいだ」の話しにつながって、「雰囲気」や「感じ」の話しにつながります。

現象学でいう、相互主観性や受動的綜合レベルの話しってことだろうな。
意識に上がる前に既に出来上がっている、感じ取られている事柄って感じかな。
そうなってくると、「脳と人間」の中でいえば、リプレゼンテーションの話しにも関わってきそうだな・・・ちょっと飛躍しすぎかもしれないけど。。。

相互主観や受動的綜合って表現も、ちゃんと現象学的な反省を繰り返せば把握できるものなんだろうけど、木村氏の本の中で心にずっしり響いたのは、bios(ビオス)とzoe(ゾーエー)っていう表現です。

ビオスっていうのは、個別的な生命っていう感じです。
人それぞれ個別的に生きているし、それぞれがそれぞれの個性的な人生を送るわけで、そうしたものをビオスと表現しています。

ゾーエーっていうのは、生命一般って感じです。
ギリシャ哲学でいうピュシスの感じらしいです。
生物としてのむき出しの生命っていうか、生命の根源のようなものです。
個別的な生であるビオスを生み出すような根源的なものです。
たとえば、有る生き物は、出産と同時に死んじゃったりします。
ビオスとしての個体は死ぬけど、ゾーエーとして、生命一般としてはつながっていくわけで、そういう感じ。

死ぬことと生きることが渾然一体としている感じで、なんとも生々しいです。

で、ゾーエーは生命一般の表現であって、アクチュアルな「あいだ」でのつながりの理由でもあるわけです。
ですから、此の世の生々しさの理由として、ゾーエー的な生々しさである「あいだ」・・・だから「雰囲気」とか「感じ」・・・って部分に触れることが精神医療の臨床の中では大切だろう・・・って感じです。
(ちゃんと理解できてるかな?誤って伝えちゃったら心配だけど、たぶんそんな感じだ。)

で、ビオスとゾーエーっていう視点から捉えると、去年から今年にかけて、「脳と人間」のリビドーとアグレッションや「バナナ・マンゴー・ハイスクール」や、そうしたことに伴ういろいろな出来事がするすると絵解きされてくる感じで、この数日はロタティオンっぽかったのです。

足元がぐらぐら揺さぶられて、いろんな発見がたくさんあって、軽く絶望して、軽く不安になって、軽く出社拒否になって、軽く頭痛がして、軽く不幸になれた。

ああ、良かった^^


さらに。


夢野久作氏の「ドグラ・マグラ」を読んでいるんですが、この本の中でも、僕たちの意識の背景でうごめいているものを表現するような箇所が出てきます。
僕の現実の出来事の流れで捉えると、ゾーエー的な感覚の表現ともいえそうなところがある。
それは「脳髄論」のところなんだけど、これから読む人がいるかもしれないから、とりあえず触れないでおきます^^


“脳髄は人間の中の迷宮であるという観点において(←筋少の例のアレw)”、意味のつながりはすごい。


きっと僕は、次のフェイズに突入する時期に来てるんだろうな。

産業カウンセラーの講座の申し込みもしたし、今年はビオスとゾーエーを軸にして「あいだ」に先入しよう。
心理やろう。
いままで基礎学ばっかりやってたからな。
そろそろ客観科学やっても大丈夫だろうな。




そして僕はまた転回して、次の相をめがけるのです。