ポカン然とした表情および。。。

・・・なんというか・・・結局のところ・・・「主体と構造」・・・という、切の無いループになるのだと思います。。。


輪廻。

の。

由来。


僕たちは面白いもので、未知的な恐怖に遭遇したときには、それを理解の下に留めようと試みます。

それは、理念の端緒といえるのかもしれません。

そうした合理性は徐々に体系化されて、因果性を由縁とする個別科学と共に、倫理観や道徳観や文化といった理念の体系も作り上げてしまいます。

それは未知的な恐怖という由縁を持つのにもかかわらず、合理性という静態的な様相の下に押しとどめられてしまう。


危機に遭遇したとき。

その乗り越え方は人それぞれです。


人それぞれであるが故に、僕はそのことに対して評価が出来ません。

と。

いうか。

評価はあまり意味が無い。

主観的普遍性・・・なんて言葉があったかもしれませんが、それはナラティブであり時間・空間の影響を受けず、時間・空間の影響を受けないからこそナラティブであり・・・。


危機に陥ったときに、理念をめがける方法もあります。


規範を希求するようなやり方です。


僕は、暗黙裡に僕のなかに育った規範によって、そうした規範を希求することは生き辛さを生み出すだけだと思っていました。

だがしかし、もし私の内実が内実だけで満たされてしまい、それを取り囲む形式を持たなかったのなら、それは意味の世界で根腐れした心理地平の一類型のようなものになりさがってしまい、それこそ、此の世との瑞々しい意味の連関を失ったものになってしまうでしょう。


規範を希求するということは、それはひょっとしたら、自分の内実を取りまとめる形式を求めているということなのかもしれません。

僕が、僕自身が、私自身が、自己自身が、連綿と続く生命一般の中に埋もれて、此の世のオリエンテーションが出来なくなってしまうことを防ぐために、規範は必要なのかもしれません。

だがしかし。

僕がここでこうしたことを言語化したとして、それはアンポンタン・ポカン博士の戯言として、見事に空振るでしょう。。。

それはそれでそうしたことなのでしょう。。。

しかたがない。。。

「主体と構造」は延々とループを繰り返して、出口の無い無間地獄・・・いや・・・出口の無い相互依存の関係の中無没識グリッドの中を駆け巡る赤色と青色のリビドーとアグレッションの如く・・・そうしたものであるということは・・・。

ビオスとゾーエーの如く。。。

以上の正式に合理性的な理由から、ロタティオンは起こらざるを得ない。

意味が主体側に偏ったら輪廻して御破算になり、意味が構造側に偏ったら輪廻して御破算になり。。。


ああ。

僕は今現在“酩酊の帝国”の一員と化しているので、取り留めの無いことばかり記述していますけれども。。。

とにかく、僕の現在を規定しているような、過去の地平に沈殿している意味の群れは、オソロシク僕の現在に襲い掛かってくるもので、こうしたオソロシクのことを、僕らは「構造」と読んでもかまわないのかもしれません。

そうして、過去の地平から現在にやってくるオソロシクに抵抗しようとする有限な無限性が主体なのかもしれない。

自我は非我を規定して非我に自我は規定されて。。。


あ。

僕の仕事がわかった。

適切な解釈学的な円環に突入するために、ロタティナイザーに常に油を注ぐということだ。

なんだか言葉がリニアになりつつありますが、僕は眠りについて朝を迎えなければならないようだ。

そして、何もわからぬまま、僕はアンポンタン・ポカン然として、出勤するのです。。。