Perspective-HEAVEN-世界像。

ドトールにて、underworldのアルバム「Dubnobass with my headman」を聴きながら、アグレッションについて考えてみる必要が出てきました。

なぜなら。
今日。
行き場のないアグレッションが変な形で此の世に炸裂している場面に出会ったからです。
・・・小さい子どもが思い通りにならなくて駄々をこねているようにも見えて、何ともいえない気分になりました。

・・・まぁ・・・仕事の話しです。。。

「アグレッションが不健康に此の世に炸裂している」っていうとまどろっこしいから、「アサーティブじゃない自己表現に出会った」っていったほうが適切かもしれません。
・・・でも、「攻撃的な言動」ってわけじゃないんだよなぁ・・・周りをコントロールするような支配的な自己表現って感じかなぁ。。。



こうした不健康な自己表現に出会ったとき、僕はどう対応したらいいのだろうか?

まず第一にとられるのは、相手の不健康な自己表現は間違っていると指摘して、その表現を修正するような道だろうな。
でも、このやり方だと、こちらが相手とは別の意見を打ち立てて、それによって相手をコントロールすることになる。
相手は、「不健康な自己表現」っていうやり方に依って立って自分の思いを表現しようとしているわけだから、こっちが相手の依って立つ基盤を攻撃したら、相手は自分の持っている基盤が揺さぶられてしまうわけで、きっと不安に感じるだろうな。(←なぜ基盤が揺さぶられと不安に感じるかってことについてはちゃんと考えてみる必要があると思うけど、ここではとばします。)
不安に感じると不快だろうだから、相手は僕の指摘は「自分を不安にさせる対立する意見」として、僕に対してアグレッションを向けてくるかもしれない。
つまり。
このやり方だと信念の対立に陥りかねない。

では、別の道として、判断中止の道をとってみます。

相手の「不健康な自己表現」について、そのことの善し悪しの判断を付けることはやめて、その表現自体は脇にどけとけます。
そして、その人がなぜそのような不健康な自己表現をするようになったのか、その表現の成立過程を探ります。

これならば、ひょっとしたら(←“ひょっとしたら”というところがミソ)共通の了解に至る道が開かれるかもしれない。

ということは、僕は次にこうした場面に出会ったら、判断中止から相互主観的領域を目指す必要があるだろうな。
相互主観的領域にはなにがあるのだろうか?
たぶん、そこには雰囲気や感じや気分がぐだぐだと漂っているのだろう。
意味のネットワークだ。(某氏の言葉を借りるなら、“緑の神経網”が張り巡らされているところといえるかもしれない。)
ってことは、そこにたどり着くためには呼吸を合わせることが必要だろうな。
気を合わせるって感じだ。
“気”なんて表現をするとちょっと現実離れしてるかもしれないけど、ようはブレッシングの練習(カウンセリングの練習でこういうのなかったかな?)が必要だってことだ。

ブレッシングから気をあわせて無事に相互主観的領域にたどり着くことができたら、そこからその人の主張がどんな風になり立っているの探ってみる。
この人はその主張を志向しているわけだから、その成り立ちを探る作業は志向された内容ではなくて、志向している作用の分析になるだろうな。
(うお。ここで志向内容と志向作用の分析って言葉を使うなんて、めちゃめちゃ荒っぽい表現ですが、つっこまないでくださいw)
志向作用の分析から、主張の成り立ちを探る。
これはお互いに意見を押しつけあうやり方じゃなくって、お互いになんでそうなっているのかセルフチェックしていくようなやり方だから、ひょっとしたら(←“ひょっとしたら”というところがミソ。)共通了解が得られるかも。

まとめると。。。

異なった信念との遭遇。

信念の判断中止・括弧入れ。

相互主観的領域を目指す。
(実存的な領域って表現した方が適切?雰囲気や感じを目指すわけだから・・・うまく表現できないな。。。)

信念を志向内容と志向作用にわける。

志向作用の分析から、なぜそのような信念が成立しているのか探る。

共通了解への道。



BGMはunderworldからP-modelの「Perspective」に変更されました^^