「無名の父性」-「無明の父性」。

青年たちが架空の父性を求めています。

なぜならば、社会に父親がいないからです。

だがしかし、ここでの父性を理念的な父親像と理解してはなりません。
会社組織の社長のような、判断力とリーダーシップをもつ人物が、青年たちが求めている架空の父性だと理解してはなりません。
もしくは、倫理的・道徳的に善悪の判断をつけることのできる人物が、青年たちが求めている架空の父性だと理解してはいけません。

このようなCEO的・倫理的・道徳的父親像のことを、仮に「無名の父性」と名付けてみます。

「無名の父性」は、社会の役割の中では求められるものだし必要な人物像だけれど、青年たちが求めている架空の父性とは別物です。
おそらく「無名の父性」は、ある時期のモードとしては必要とされていたかもしれませんが、それはもはや過去の地平の中に撤退しており、僕らの現(いま・ここ)には実在しません。
「無名の父性」は、ただ空虚な意味の枠となり、僕らの過去の渦の中を漂っているだけです。


さて。
ここで。
僕らは大いなる分岐に行き当たります。
僕らは判断を迫られる。
それはすなわち、「無名の父性」を“本来的な父親像”として、“真なる父親像”として、“父親像のあるべき姿”として打ち立てるのか?それとも別のありうべき父性を探すのか?という分岐です。

前者の道は、過ぎ去った過去を本来的なものとしてみる見方。
後者の道は、現(いま・ここ)から始めて、どんなものがめがけられるか探る見方。

僕は現実経験から考えを繰り出したいと思うので、後者の道を選びたいと思います。

で。

現(いま・ここ)からめがけられる父親像、つまり青年たちが求めている架空の父性とは、平沢進氏のような人物像になるのではないでしょうか?

その根拠としては、平沢氏のフォロワーが3万人を超えているからです。
そして、平沢氏のアルバム『突弦変異』が売れているからです。
そして、平沢氏は56歳です。
そして、56歳といえば青年たちの父親たちの年齢と同じくらいになるでしょう。


こうした現実的な根拠から、青年たちが求めている架空の父性は平沢氏のような人物なのではないかと推論することが可能になります。
ですので、僕は平沢進氏という人物について考えてみる必要があります。

だ。
が。

平沢氏の人物像に関する考察は、僕の偏った思いの投げ入れになるので、しませんw
wikiを参照してくださいw
http://ja.wikipedia.org/wiki/平沢進


しかし、キーワードとしては、いくつかあげられます。

・56歳でミドルエイジである。
マッドサイエンティスト的である。
・論理的である。
・規範的であるがユーモアがある。
・批判的である。
・意味に遊ぶ。戯れる。
・言葉を操る。戯れる。
・二律背反的で悩んでいる。(ように僕には見える)
・知恵がある。そしてその知恵は自然主義的な知識ではなく、自分で考えて悩んで具合が悪くなるという、実存的な知恵である。(そんなふうに僕には感じられる。)


単に規範的論理的な人物であれば「無名の父性」とあまり変わりはありません。
しかし、実存的な知恵を持っているというところに特徴的な違いを見て取れそうです。
こうした、“自分で考えて悩む”実存的な知恵のもつイメージは、どちらかというと父性よりも祖父性といえるのかもしれません。

そうしたわけで、青年たちが求めている架空の父性とは、上記のような祖父性に近い父性といえるのではないでしょうか?

で。
この父性は「無名の父性」とは区別して、「無明の父性」と名付けましょう。

“無明”と名付けると、「俗物的で真理を悟ることが出来ない」という意味が付与されそうですが、それは平沢氏を一介の芸人として実存的な生を生きている単なる太陽系の歩行者として捉えているということであり、僕のささやかな礼儀作法のつもりなのです。
しかし、こうしたことをわざわざ言葉で説明すると“粋”ではなくなるので、この説明は無視してくださいw






そして!

ここで!

どうしようもない事実として!

僕は『突弦変異』をまだ購入していないし聴いていない!

・・・給料出たら買いますw

それから、この文章は僕のユーモアのつもりなので、真に受けないでくださいw