価値の手前。

近いものは近すぎて、近さから遠ざかってしまう・・・。


私たちは、世界像をもっています。
暗黙のうちに、“世界はこのようにある”と思いこんでしまっています。

それは、価値についてもいえます。
私たちは、価値評価を利用した世界の見方が習慣化されてしまっているので、価値評価成立以前の、直接的な現実をそのまま表現することに不慣れになってしまっています。


たとえば、幸福という価値評価について考えたとき、僕たちは暗黙のうちに、幸福という価値評価とはどういうものか想定してから話を進めます。
つまり、僕たちは僕たちを規定している公理系に対して、ほとんど疑いを抱かないまま考えを進めることに、慣れてしまっているのです。
ですので、話の内容は、なにが幸せな幸福像で、なにが不幸せな幸福像か、ということになってしまう。どうすれば幸福になれるか?という話しに陥ってしまう。良い幸福、悪い幸福という考え方になってしまう。
たとえば、正義とか倫理観とか人生についても、似たようなことがいえます。
良い正義とは?、役立つ倫理観とは?、より良い生き方とは?といったように、価値を定立させたまま考えを進めることに陥りがちです。

それはそれでまったく問題はないですし、そうした定立させたまま考えを進めた方が、深く強く考えていると感じることができると思います。


でも、このことが覆い隠してしまっている現実があるんです。

それは、大抵、“雰囲気”とか“感じ”とか呼ばれているもので、価値評価成立以前に既に成立してしまっている、直接的な現実のことです。
暗黙のうちに想定された価値観は過去の地平に埋もれたものですが、直接的な現実は定立化できないほどにランダムです。
そのときそのときの気分で常に変転していく生き生きとした現実感が、価値評価成立以前の現実です。
でも、私たちは定立化思考に慣れてしまっているので、直接的な現実になかなか接近できません。


近いものは近すぎて、近さから遠ざかってしまう・・・。


こんな感じで、現実にストップをかけて考えてみると、別の問い方があることに気づけます。
それは、なぜ価値評価が成立するのか?といった問い方です。
なにが良い価値評価か?役立つ価値評価か?、という問いの立て方ではなく、そもそも、なぜ価値評価は成立してしまうのか?といった問いの立て方です。
たとえば幸福という価値評価で考えた場合、万人にとってより役立つ恒久的な幸福とはなにか?と問うのではなく、なぜ幸福は成立してしまうのか?と問うやり方です。

しかしその問い方は、より原理的であるが故に、ほとんど無能なものです。
もし僕の中で、僕の中にある僕を規定している価値評価の公理系が壊れてしまったとします。
そうした時、おそらく僕は、なぜ価値が崩れたのか?そもそも価値はなぜ成立するのか、必死になって探すでしょう。

そうした場合には原理的な問い方が生きてきます。

でも、普通は価値評価の公理系が崩れることは少ないので、普通の人にとっての原理的な問い方はまるで意味を成さないのです。


そうしたわけで、価値の手前は以外と遠いなぁと思いましたw