シン・ゴジラの感想・その3!

シン・ゴジラは良い映画だった。

ポップコーン食べながら観るのが失礼だと思えてくるくらい、ちゃんとした良い映画だった。

僕が思う良い映画は、観る側に想像の余地が残されているかどうかということなんです。この余地がないと、映画との対話感が生まれないんだよなぁ。

想像の余地がない映画の代表は「チャッピー」だ。あれはダメだね。卑怯な映画だ。どう卑怯かというと、観るとみんな感動してしまうからだ。ほとんど自動的に心が揺さぶられて、感動の涙を流しちゃうんだよ。大抵の人間が持っている倫理的道徳的な価値観を人質に取って、「これなら泣けるでしょ?」みたいな感覚で迫ってくる。だから、「チャッピー」を観た人は感動せざるを得ない。だって感動しなかったら人でなしになっちゃうもの。

例えば「さよなら人類」って映画があります。これはもう「チャッピー」とは正反対で、観る人の想像力が試される映画なんだ(あー。実存的な映画と娯楽映画を比べちゃだめかも)。でも、想像の余地が広すぎるから人によっては“なんだかわけがわかりません”ってなっちゃうと思う。だけど、少なくとも監督の対話をしたいという態度が伝わってくる。

タルコフスキーの映画もいいね。確実に寝るけど、その日の気分によって映画の感想が違ってくるからおもしろいんだ。

進撃の巨人」はダメだったな。大きな音と物が壊れる様子が写されてるだけで、想像の余地がぜんぜんない。


で。

シン・ゴジラ

これが絶妙なんだ。


この映画は、事実が事実として描写されているだけだから、僕はほとんどなにかを押し付けられてるっていう感覚を抱かなかった。

ダメな映画の特徴って、主義や主張や思想のせめぎ合いになっちゃうってのがあげられると思うんだ。そういうのって、正直「知らねーよ」って感じになってくる。

でも、シン・ゴジラにはそれがないんだよ。事実が事実として描写されているだけだから、どう感じてどう解釈してどう感動するかは観客に委ねられているんだ。

だからすごく心に響いたし、未だに頭がくらくらしてる^^

さらに!
ゴジラが出てこないシーンがいいね。ドラマパートをこんなにもテンション高く表現できるものなんだね。

・・・なんていうんだろうな、ドラマがないからドラマがある・・・って感じかな。

“感動を伝えよう”って態度がないから感動できるっていうのかなー。うまく表現できないけど。


・・・九鬼周造感がある・・・


つまり、“いき”ってこと!

そうだ!“いき”なんだ!


進撃の巨人」は“いき”じゃない。ごてごてしたイヤな映画だった。「チャッピー」もそうだ。

だからといって、「シン・ゴジラ」は作家性に埋没していなくて、ちゃんとハラハラもドキドキもする。

そういう意味で絶妙なんだよ。

なので、絵解き系の人は是非観てください。なんか心にくるものがあると思うな。

それから、僕はいい加減「いきの構造」を読み進めよう。読了してないんです。

ああそうか。この映画は“虚構対現実”らしいけど、“世界観対直接的現実”って表現もできるかも。世界観としてなら幸福とか不幸とかいう価値体系がを語れるんだ。でも、直接的な現実はそうした世界観以前に動いてしまっている。価値体系を無視して襲いかかってくる。だから、僕ら臨床に関わっている者(僕はメンタル系の仕事をしています)は、世界観以前に生きられてしまっている直接的な現実をどんなふうに了解できるかを模索するわけだ。そうしないとちょっとしんどい。

世界観を無視して迫り来る直接的な現実。それをシン・ゴジラに感じた。

だから未だに頭がくらくらしてるw