無限の現在。

と。

いうか。

いくつかの理由から“現在”は守られなければならない。




僕たちはいろんな“相”を行き来しながら生きています。

朝起きて隣人に挨拶をするときは、“隣人相”に移行します。
職場に行き同僚に挨拶をするときは、“公共相”に移行します。
つまらない社交辞令をするときには、“公共相”はもっと醜悪にな“空笑相”に変化します。
親しい人間と接するときは“友情相”に移行し、もっと親密な関係の間からになると“愛情相”に移ります。
“愛情相”はさらにいくつも分化し、“親密な関係”を媒概念にしながらも、“家族愛情相”や“異性愛情相”や“地域愛情相”や“人類愛情相”などに枝分かれしていきます。
そして“愛情相”は、“愛情相”とまったく同じ意味のつながりを持ち、まったく正反対のテンションで存立する“愛憎相”を生み出します。

そして、こうしたいくつもの“相”を規定しているのは、「私にはそのように思われる」と直接的に感じている、私自身の世界体験そのものなのです。

空は黒く陸が赤いのならば、空は黒く陸は赤いのです。
けっして客観的な現実は違っていようとも、私自身に空が黒く陸が赤く見えたのならば、此の世に在る空は黒く、此の世に在る陸は赤くなければならないのです。

そして、そのように生成不断に紡ぎだされる意味の連なりが、遥か那由他の遠方にある直接的な“今・ここ”、つまり“現在”です。




現在は、あらゆる“相”の根元に在るものだから、もし、私が世界に意味を与え続けようとするのなら、あらゆる手を尽くして守らねばならない。



さて。

僕たちは現在を表現する手段を手に入れました。

twitterustreamといったちっぽけなテクノロジーがその手段です。
SNSではない)


これらのテクノロジーは、より現在に近い。
既に定立されてしまった“相”によって自己表現されるというよりは、それらの“相”を規定しているような直接的な現在に近い。

ですから、あらゆる人間の現在が、公園を歩行している人間たちの現在のように、まったく非因果的に羅列されています。
そして、僕たちは非因果的な現在を任意に選び取ることが出来ます。

そうしたおもしろいテクノロジーですので、ときに既に定立化された“相”に出会うと一気に興ざめしてしまいます。

たとえば、企業や団体の販促的営業的な活動に出会ったときは、なんともいえない気分になります。
そうした現在は、むき出しの直接的な現在というよりは、“企業相”や“思想相”や“主義相”などに規定された理念的な現在と呼べそうです。

理念的な現在は、僕の直接的な現在を曇らせる。

だがしかし。

現在は僕のものであり、現在は僕によって選び取られます。

不愉快な理念的現在に出会ったら、僕は礼儀正しく回避して、迂回路に非難することにします。