秘密のモードの秘密の秘密。

秘密。

が。

ある。

内包と外延の秘密。。。
呪の秘密。。。
事実と意味の秘密。。。

などです。

なんで“秘密”と表現するのかというと、それが隠されているからです。
私たちの現実は、実は構成的に成り立っているけれども、そのことはあまりにも当たり前すぎて、人はなかなかその成り立ちに目を向けることができません。
昔は宗教モード(とくに陰陽五行の見方が得意なの人たち)がこの秘密に迫っていたけれど、それは現在のモードではありません。
今は科学モードが流行(モード)だけど、このモードは世界が既に構成されていることが前提とされているから秘密はさらに隠されてしまいます。一般の人が所属している社会モードも基本的には科学モードと同じようなもので、社会形式が既に構成されていることを前提として成立しているので、秘密は隠されたままになっています。

こうしたモードを“背景的な前提に規定されたモード”として「定立化モード」と呼称してみます。
・・・宗教モードでさえ、その思想や技法が体系化されたルールとして定立されてしまったなら、それは社会や科学と同じような定立化モードとして捉えられるでしょう。。。


おそらく。


こうした定立化モードから構成の謎に視点を変更する学問的なモードが哲学モードになるんだと思います。
だがしかし、このモードが得意とする“前提を解体する態度”とは決してプラグマティックなものではないので、なかなか定立化モードから哲学モードに移行することはできません。
(というか、哲学する動機を持ち得ない状態自体が普通の状態)


では、定立化モードにいる人たちがどうすれば構成を探るきっかけを持ち得るのでしょうか?


ひとつには危機的限界状況に接することにあると思えます。
病気だとか障害だとか、そこまでいなかったとしても人間関係や生きづらさなどによって、背景的な価値評価を利用しての判断が通用しなくなってしまったときです。
そうした危機的限界状況に陥り、陥ったとしてもなおも先に進もうとするのならば、その人は、その人を規定している背景的な価値評価とはなんだろうか?と内省するきっかけを持つことになるでしょう。おそらく、この“内省するきっかけ”というものが哲学モードに移行して構成の秘密に接近するキーになるのだと思えます。

だがしかし、宗教モードに定立化の危険性があるように、この哲学モードにも定立化の危険はあるのだと思います。教条的に哲学の方法を利用しようとしたら、それは定立化した価値評価を利用して判断を下している定立化モードと変わらないわけですし。。。