フマニタス。

ああそうだ。

表象だ。

表象なんです。

例えば僕らの中で、「ああ。あれは良いことだ。」とか、「ああ。あれは悪いものだ。」とか、「ああ。こうした時間が在るのだ。」とか、「ああ。こうした辛いことがあるのだ。」とか、そうした感じというものは、現在から過ぎていって心的に過去の地平にもたげている意味の群れが統一的に実体化した表象なのだ。

だから。

その表象の群れにもぐって、その成り立ちを吟味してみる必要があるのです。表象の成り立ちを吟味するということなのです。

そしてこの作業は最初から敗北することが決まっているのです。

プラグマティズムに敗北するのです。

なぜならば、この作業には意味がないからだ。表象の成り立ちを探ったとしても、病気は治らないし、幸福は不幸にならない。

だ。
が。
しかし。

この作業が唯一意味があるとすれば、それは、表象が実体化して現実を規定してしまうことに警鐘を鳴らすことなのです。

あくまで「鳴らす」ことなのです。

そうして、こうした意味の実体に警鐘を鳴らす業務というものは、意味の外苑と内包を操る人たちの仕事だったのだけれど、そうした仕事はプラグマが奪ってきた。「役たたず」の烙印を押され続けた意味使いの人たちは、かろうじてサブカルの中に生きているのだけど、それもプラグマにレイプされて瀕死なんだ。

ですので。

「ああ。これは空間が在るのだ。」とか、「ああ。今日は良い天気なのだ。」とか、「ああ。あれはにくい人間なのだ。」とか、「ああ。ご飯が美味しいのだ。」とか、そうした感じが現在から過ぎ去って心的に過去の地平にもたげている表象の群れの実体として現在に襲いかかってくるのです。元気炸裂炭酸。マカスカッシュ。