円環転回回転循環。

音頭の季節になります。

お外に出ると、ご陽気な音楽が流れてくる季節になるのです。

きっと、家や職場やお店や公共機関の外に出ると、その外のほうからどこからともなく、もしくは僕の知っているところから、ご陽気な音頭が流れてくる季節になってきたので、僕は音頭を聞いてご陽気になったりご陽気にならなくなります。

さて。

先日も音頭が流れました。

外に出ると、どこからともなく音頭が流れてきたのです。

そして、ご陽気な音頭音楽とともに、司会の方のご陽気な声も聞こえてきたのです。

花火もどかんどかん上がっていたのですし、きっといろんな人物が輪になって踊っていたりするんですね。
いや。
まだお盆じゃないから踊っていないのかもしれませんが。

よしんば踊っているとするのならば、それは輪になってくるくるくるくる回ったり面白いポーズをとったりせわしなく動き回っているのでしょう。

ああ。

そういえば。

僕も幼い頃は輪になって、くるくるくるくる回ったものだ。
いや。
音頭でくるくるくるくる回った思い出はあまりないのではないのでしょうか。
どちらかといえば、僕がくるくるくるくる回ったのは、運動会の出し物だ。
ああした集団でやる出し物の中では、グラウンドをくるくるくるくる回って、大きな円で回ったり、小さな円で回ったり、そうした行動をしていたもので、そうした思い出はあるのです。

だがしかし、気をつけなければならない。

それは、こういうことで、どういうことかというと、運動会は9月とか10月とかの出来事だということです。
運動会が肌寒い季節なのです。

ということは、僕は音頭を聞いてくるくるくるくる回る人物を思い浮かべるのですが、それは運動会ではない。

では、くるくるくるくる回る音頭で暑い思い出とは何かというと、キャンプファイヤーではないのかと思います。
キャンプファイヤーもくるくるくるくる回ります。
火をたいて、歌を歌いながらくるくるくるくる回るのです。
だがしかし、音頭ではないなぁ。

音頭でくるくるくるくる回るのは、僕は実際にやったことがなく、お祭りでくるくるくるくる回りだす人物の群れを見ていたり、テレビの中でみていたりと、そうした思い出のことなのです。

そうして、くるくるくるくる回るのは、けっして音頭やキャンプで火をたいたときだけではなく、学校のグラウンドや近所の神社の境内にあるブランコにのって、前後に行ったりきたりするのではなく、ブランコのブランコ椅子をつるしているチェーンをくるくる巻いて、その反動を利用してくるくるくるくる回るときもくるくるくるくる回っているのです。

あと、ハンカチ落としのときもくるくるくるくる回りますが、あれはぐるぐるぐるぐる回るといったほうが正しいのです。

僕はまだ見たことがないのですが、どうやら地球も回っているようなのですが、これは人に聞いた話なので僕はまだ実際にみたことがないのです。
そして、この地球の回りは、くるくるくるくるでもぐるぐるぐるぐるでもなく、そうした感じではないのではないのです。
そこには、そうした感じではない理由があって、これも人に聞いた話なのですが、宇宙には空気がないから音が伝わらないから無音で、地球が回るときは無音なんだろうなぁ。




そうして、光景はループするのです。



僕を取り巻く光景は、僕の運動の速度と一緒にだんだんだんだん変わっていって、くるくる回りの入れ子構造のようにループをしているのです。

僕は世界に意味を与えて、世界を形作ります。
世界は意味を僕に与えて、僕を形作ります。
だがしかし、そうともいえないのです。
僕が世界を作って世界が僕を作るとはいえそうにない感じでくるくるくるくるしています。

なぜならば混濁しているからです。

その意味は自分でもないし世界でもないし、どちらかというと混濁しているような“与え-与えられ”の意味のつながりと表現できそうであり、そうした“与え-与えられ”の意味の連関が世界を作り上げているといえそうです。

混濁の中で、「世界にとっての自分の位置を確かめて、自分にとっての世界の位置を確かめる」といったやり取りを行うのですし、それは現象レベルで、対化とか“すでにある”そんなニュアンスで表現できる出来事っぽいんじゃないのかなぁって思うんですが、こうしたオリエンテーションが行えなくなるときがあるのです。

僕は僕や世界に対してオリエンテーションを行うけれども、そのオリエンテーションから逸れて、これから何をしていいのかわからなくなるときがあるんです。
こうしたときは、意味のループにはまって、僕にとってはおなじみの光景なんですが、あの手この手で自分を位置を確定しないとならなくなるのです。

これはあくまで混濁の中で行われるんで、「世界にとって僕はこういう意味があるのです」とか「僕にとって世界はこういう意味があるのです」とか、そんなふうに割り切れるものではありません。
そうではなくて、あくまで“与え-与えられ”の関係の中でオリエンテーションできるっていうか、そんな感じでくるくるくるくるしているのです。

で。

そういう光景のループは何度も何度もくるくるくるくる訪れます。

自分の位置を確定して見失って確定して見失って・・・保証・逸脱・保証・逸脱・保証・逸脱・保証・逸脱・保証・保証・逸脱・保証・逸脱・逸脱・逸脱・逸脱・保証・空白・保証・逸脱・保証・逸脱・保証・逸脱・保証・逸脱・・・確定して見失って確定して見失って・・・音頭でくるくるくるくる回って・・・キャンプして火をたいてくるくるくるくる回って・・・光景がループして。。。


そうしたわけで、あの音頭とともに聞こえてきたご陽気な司会者は、町内会の人なのだろうか?
それとも、雇われた業者の司会者なのだろうか?


そして、この文章の前半のBGMは、オ・ウンジュの「運転手さん気をつけてポンチャック」であり、後半のBGMは旬(平沢進)の「landscape-1」であり、「landscape-1」は今聡監督の「千年女優」のオープニングでかかっている曲であり、フラクタル入れ子構造なのです。