“う”感覚。

日常は混沌としており、それほど尊大じゃあない。


なぜなら、日常は時折崩れてしまうことがあるからです。

たとえば風邪を引いてベッドから起き上がれなくなってしまうと、いままで日常的に行っていたシャワーに行くとか食事をするとか、そうしたフツーの行為から距離を置かざるを得ない状況になり、日常の崩れをわずかながら体験することができます。

しかし、こうした崩れはそれほど深刻なものではありません。

崩れるのは日常のわずかな日常性のみであり、世界そのものは世界として保たれたままです。
赤色は赤色のままであり、机に触れたときのすべすべした感覚はすべすべした感覚のままであり、明日は明日であり過去は過去であり現在は現在のままです。

しかし。

こうした内的な疑えなさが、根底から崩れ去ってしまう瞬間があります。

その崩れは、僕がこれまでよって立っていた日常、いや世界の全てを無効にして、その世界から思い描くことを全て奪い取ってしまいます。



その崩れはあまり味わいたくないものだけれど、道端に落ちている驚愕に気づく瞬間でもあるのです。



そこまでの崩れじゃあないけれども。。。




“う”




なんです。。。


その崩れは“う”なんです。


僕は、“う”なんていらないと思っていたんです。



僕らのお殿様であるケンは語ります。

例の早口言葉や東村山音頭やスイカ人間やひげダンスやウンジャラゲやひとみ婆さんや“だっふんだぁ”や“あいーん”やいろいろなおかしな格好やおかしな表情やおかしな感じでおかしな言葉を語ります。

そして。

僕は“だいじょぶだぁ”だと思ってたんです。

あの。

僕の大好きな大ギャグ“だいじょぶだぁ”は、本当は“だいじょぶだぁ”なんかじゃあなくて、“だいじょうぶだぁ”だったんです。。。

番組名も「だいじょぶだぁ」じゃなくて「だいじょうぶだぁ」だったんだ。


でも。

ケンは確かに「だいじょぶだぁ」っていってるわけだし、“だいじょぶだぁ”だって間違えじゃないとは思うんですが、表記はしっかりと「だいじょうぶだぁ」になっているわけで、僕はこの32年間間違えて覚えていたわけだ。。。

ああ。

僕のよって立ってた現実は間違えだった。。。

でも。

世界が崩れたわけではない。

僕が“だいじょうぶだぁ”を“だいじょぶだぁ”と思っていたその疑えなさにおいて、それは紛れもなく現実なわけだし、その“疑えなさ”という内的な感覚それ自体は疑いようがない。

“疑えなさ”それ自体は疑えないが、今僕は“う”が入るということを知ったわけだから、過去の体験が否定されるのではなくて、これから起こる現実体験において、僕の現実は変容されて、“だいじょうぶだぁ”は“だいじょぶだぁ”ではなくて“だいじょうぶだぁ”として訪れることになるのでしょう。


そうしたわけで、大丈夫なんです。