幻想企図2。

※「幻想企図(http://blogs.yahoo.co.jp/nanonoid/57100544.html)」の続き。


CIAとKGBとFBIと共産党の陰謀により、僕らの幻想的な企図は成就しました。




安寧と享楽の地への道標が現成化したのです。




そもそも、僕らはなんの意味もなくこの世に投げ入れられています。
投げ入れられ、生きざるをえず生きなければならない状態を強いられています。

この状態のことを、仮に<虚構倫理>と名づけてみます。
(この名指しはまったく恣意的なもので、そこに意味はありません。)

<虚構倫理>に対して、人がどんな態度をとるかは自由です。

事実のみを見つめるなら、現実は<虚構倫理>の構造をとっているので、そこには何の意味もありません。

ですので、とても不安になります。

不安だから理念的な世界を思い描いて、その理念を利用することで、まるでこの世に意味のあるように思い込むことができます。
この世に投げ入れられたことに理念の側から意味を与えて、理念の側から生きることに意味を与えて、理念の側から死ぬことに意味を与えて、<虚構倫理>の事実的な構造を“なかったこと”にすることは可能です。

そうした世界像を思い描いて、自分の生に外側から意味を与えることは可能です。

それは、良いこととか悪いこととかではなく、生きやすく生きるための方法なので、人にとっては必要なことです。


ここのところ、人類の世界像モード(流行)は客観科学的世界像になっています。

客観科学的世界像だとかっこ悪いし余計な意味がついてくるから、この世界像のことを<破風>と名づけてみます。
(この名指しはまったく恣意的なもので、そこに意味はありません。)

<破風>は、この世をとても単純な形で、しかも他人と共有し易い形で表現してくれるので、とても強力です。
僕がどんなに自分の全存在をかけた自己表現をしたとしても、<破風>は無慈悲に僕に襲い掛かってきて、「それは正しい!」とか「それは間違いだ!」と、強制的に僕を規定してしまいます。

<破風>が行う<虚構倫理>の隠蔽は、僕たちの社会の構造や文化にまで及びます。

学校を卒業して社会に出たら就職してお金を稼がねばならない。・・・~ねばならない。
お金を稼いで、社会のルールと折り合いをつけつつ自分の欲望を満たさねばならない。・・・~ねばならない。
そして結婚して、家庭を築いて、子供を生んで、人類を繁栄させねばならない。・・・~ねばならない。

“~ねばならない”の形式で、僕の行動を縛り付けます。

そして<破風>は、ユートピアのパロディを僕たちに見せてくれます。

<破風>の仕組みを守れば、この世を楽しみ、生きることに喜びを見出し、死ぬことにも喜びを見出し、人生を成就することができると、ユートピアのパロディを僕たちに見せてくれます。


・・・それは、良いこととか悪いこととかではなく、生きやすく生きるための方法なので、人にとっては必要なことなのです。。。




だ。



が。



しかし。




だがしかし。

だがしかし。

だがしかし。


※・・・この場合の“だがしかし”は、エクスクラメーションマークを付けて“だがしかし!”と表現するよりも、ただ淡々と“だがしかし”と表現するのが適切なのだ。。。


だがしかし。

だがしかし。

だがしかし。




だ。



が。



しかし。




<虚構倫理>は僕らを見逃してくれない。。。

いくら<破風>の見せるユートピアに近づこうとしても、<虚構倫理>は不気味にあなたを見つめています。

そして、<破風>の形式的“~ねばならない。”からあなたを解放しようと、あなたを促します。


もし、あなたの“我”が<虚構倫理>を鉄の手で心の奥底に沈めこむのなら、通勤途中にお腹が痛くなって、出勤したいという意志とは裏腹に知らない場所にあなたを導くでしょう。
もし、あなたの“我”が<虚構倫理>を鉄の手で心の奥底に沈めこむのなら、夜寝る前に小さい頃の神社の境内でいじめられた出来事を何度も思い出して、あなたは寝付けなくなるでしょう。
もし、あなたの“我”が<虚構倫理>を鉄の手で心の奥底に沈めこむのなら、おかしなくらいテンションが高くなって、その恐怖を見なかったことにしようとするでしょう。

ひょっとしたら<虚構倫理>は、<破風>の仕組みからあなたを解放するために、あなたをこの世から脱出できるように仕向けるかもしれません。
それは体に悪いものを食べ続けることかもしれないし、寝ないで仕事をし続けることかもしれないし、お酒を飲み続けるかもしれないし、偏った人間関係に陥ることかもしれません。


こうした<虚構倫理>の促しが成功すると、あなたは<破風>の仕組みから逃げることができます。

もし、<破風>の仕組みから逃げることができたのなら、あなたはとても絶望をすることになる。
なぜなら自分の生を肯定してくれる、自分の外側にある理念の群れを失うからだ。

もし、絶望して、依って立つ理念をなくしたのなら、あなたは自分でこの世に意味を与えなければならない。

もし、そうした絶望の中でもなおかつ生きていこうとするのならば、あなたは自分の全存在をかけてこの世に意味を与えて、どこにも依って立つ意味は無いけど自分でこの世をドライブできるように、レスキューのスキルを鍛えなければならない。


だがしかし、この世には<破風>の手先としてのpsy科がたくさんあり、psy薬がたくさんあり、自分でこの世に意味を与えなくても生きられるようにしてくれます。


こんな状態のこの世なので、<虚構倫理>はとても幻想的な方法で<破風>に食って掛かったようです。


それは、新型インフルエンザです。


新型インフルエンザにかかれば仕事を休まなきゃならないので、嫌でも<破風>の仕組みから逃れることができます。
運が悪ければ、この世から強制的に脱出することにもなってしまう。
そうしたことは身体的にはあってはならないことなのですが、ないがしろにされてきた<虚構倫理>の自己表現なのかもしれません。

そして、自分の全存在をかけた自己表現の方法に逸れている人たちは、幻想的な企図として、新型インフルエンザにかかることを望んでいるのです。

まぁ。

まったく意識的にではないにしても、幻想的に人間が望んでそうしていることだから、誰もそのことに文句は言えません。


現在、僕はウィルスの隙間を歩行中。


<破風>への対処の方法に行き詰ったのなら、僕は幻想的な企図として新型インフルエンザにかかってしまうでしょう。