ZEROはENEMY?
「猫2。(http://blogs.yahoo.co.jp/nanonoid/30857215.html)」で述べた例の彼は、理念化された自己像によって、現実が覆い隠されてしまっていました。
もちろん、人には「このようであるがこのようでもありたい」という実存的な部分があます。
しかし、その実存的な部分が「このようでありたいがこのようでしかない」と覆い隠されてしまうこと自体、それもまた現実の姿の一つです。
現実は現実であり、現実である以上は現実でしかないのですが、もし、実存的な現実を「本来在るべき人間の姿」と仕立て上げてしまったら、そのつどランダムに訪れる覆い隠す現実によって、引き裂かれる自己的絶望に陥ることになります。
実存は確率によって解体されてしまう。。。
しかし、実存的な部分がなければ、未来像を思い描いたり、自分の在り様を思い描いたりも出来なくなってしまうわけだ。
そうなると、実存と確率の両方と、何らかの形で折り合いをつける必要が出てきます。
その場合、“本当”や“真実”や“本来”といった、確定的な表現とは別の表現の仕方が必要になってくるのではないかと思えます。
確定的でく、無情な確率に抗うような表現となると、「抵抗」という言葉が使えるのではないでしょうか?
実存的な在り様を成就させるために、無情な確率に対する抵抗活動を繰り広げていく・・・。。。
97。。。
・・・97年は、今から11年前です。。。
僕は、今より11歳若く、20歳でした。
97年は、僕にとって創造的な年でした。
音楽をやって、SF小説を気分が悪くなるほど読んで、映画をたくさん見て、テレビゲームを死ぬほどやって・・・w
セガサターン全盛期で、テレビゲームで自己表現をするクリエイターも数多く出てきました。
今でも心に残っているクリエイターは、飯野賢治です。
わがままで、自分勝手、敵しか作らないような人物であり、その作品も作家性が高すぎて、とてもエンターテイメント呼べるようなものではありませんでした。
しかし、僕は彼のゲームが大好きです。
彼の作った「ENEMY ZERO」は、最初に作家性が炸裂した作品だと思います。
彼は、この作品で「デジタルな悲しみを表現したい」と語っていました。
・・・正直、なんのこっちゃわかりませんwww
BGMは、僕らのマイケル・ナイマンが作っているのですが、確か彼も、「彼(飯野賢治)が表現したいデジタルな悲しみはとても難解だ」と語っていたと記憶しています。
実際、ゲームをクリアしてみても、ほとんど何も伝わってきません。
ストーリーとしては、(こっからネタバレあり)宇宙船の中で目に見えないモンスターが暴れて、主役であるローラという女性は、敵を倒しながら宇宙船から脱出する、という単純なものです。
ただし、主役であるローラは実はサイボーグであり、この宇宙船から逃げられたのは、サイボーグの彼女だけであったという落ちが付きます。
プレイした当初は何もわかりませんでした。
ただ、そのBGMはマイケル・ナイマンが担当しただけあって素晴らしく、今でもサントラよく聴きます。
どんな時に「ENEMY ZERO」のサントラを聴くかというと、ぐったりしているときです。
もう、何も考えたくなくなって、じっとしていたい時には「ENEMY ZERO」の曲を聴きます。
今日も仕事に疲れて、ドトールで一日の振り返りをしながら、「ENEMY ZERO」の曲を聞いていました。
ふと。
彼のいう「デジタルな悲しみ」が理解できそうな感じになりました。。。
「実存は確率によって解体されてしまう。。。」というニュアンスを軸にすると、何となく理解できそうです。
主役であるローラの未来像は確定的です。
サイボーグなので、行動はデジタルに規定されています。
彼女は良く出来たサイボーグなので、ほとんど人間に近いんです。
いろいろ思い描く能力もあるようなのですが、その全てはデジタルな反応でしかない可能性が高いんです。
つまり彼女は、生まれながらに「このようでありたいがこのようでしかない」という生き方を与えられてしまっているんです。
実際、このサイボーグの制作者も登場して、彼女に対して保護者的な態度を取ろうとします。
しかし、彼女は「抵抗」するんです。
目に見えないモンスターと闘わなければならないという限界状況がそうさせているのかわかりませんが、自分の行動を規定している確定的な運命に「抵抗」を繰り返して生き抜くんです。
・・・そうなると、ロボットに自我が芽生えて云々っていう理解をしてしまいそうですが、それはちょっと不粋な気がします。。。
そうではなくて、飯野さんは、確定的な現在に抗って自分の在り様を切り開いていくニュアンスに、人間性というか、それこそ実存的な「このようであるがこのようでもありたい」という部分を表現したかったのではないでしょうか?
彼女はサイボーグなので、確定的に訪れる未来像に抵抗し、生き抜くことが出来ました。
僕は人間なので、どんな未来像が訪れるかはランダムです。
自分の自己像を規定しようと襲い掛かってくる確率の群れに対する「抵抗」も、成就できるかどうかはわかりません。
しかし、まぁ、「抵抗」することが実存的な人間味だとすると、そこそこの抵抗活動も“粋”なんじゃないでしょうか?
「ENEMY ZERO」のサントラには「ENEMY ZERO」というタイトルの曲が入っています。
この曲は、おどろおどろしい曲です。
でも、力強い曲でもあります。
「抵抗」のテーマ曲かも。
もちろん、人には「このようであるがこのようでもありたい」という実存的な部分があます。
しかし、その実存的な部分が「このようでありたいがこのようでしかない」と覆い隠されてしまうこと自体、それもまた現実の姿の一つです。
現実は現実であり、現実である以上は現実でしかないのですが、もし、実存的な現実を「本来在るべき人間の姿」と仕立て上げてしまったら、そのつどランダムに訪れる覆い隠す現実によって、引き裂かれる自己的絶望に陥ることになります。
実存は確率によって解体されてしまう。。。
しかし、実存的な部分がなければ、未来像を思い描いたり、自分の在り様を思い描いたりも出来なくなってしまうわけだ。
そうなると、実存と確率の両方と、何らかの形で折り合いをつける必要が出てきます。
その場合、“本当”や“真実”や“本来”といった、確定的な表現とは別の表現の仕方が必要になってくるのではないかと思えます。
確定的でく、無情な確率に抗うような表現となると、「抵抗」という言葉が使えるのではないでしょうか?
実存的な在り様を成就させるために、無情な確率に対する抵抗活動を繰り広げていく・・・。。。
97。。。
・・・97年は、今から11年前です。。。
僕は、今より11歳若く、20歳でした。
97年は、僕にとって創造的な年でした。
音楽をやって、SF小説を気分が悪くなるほど読んで、映画をたくさん見て、テレビゲームを死ぬほどやって・・・w
セガサターン全盛期で、テレビゲームで自己表現をするクリエイターも数多く出てきました。
今でも心に残っているクリエイターは、飯野賢治です。
わがままで、自分勝手、敵しか作らないような人物であり、その作品も作家性が高すぎて、とてもエンターテイメント呼べるようなものではありませんでした。
しかし、僕は彼のゲームが大好きです。
彼の作った「ENEMY ZERO」は、最初に作家性が炸裂した作品だと思います。
彼は、この作品で「デジタルな悲しみを表現したい」と語っていました。
・・・正直、なんのこっちゃわかりませんwww
BGMは、僕らのマイケル・ナイマンが作っているのですが、確か彼も、「彼(飯野賢治)が表現したいデジタルな悲しみはとても難解だ」と語っていたと記憶しています。
実際、ゲームをクリアしてみても、ほとんど何も伝わってきません。
ストーリーとしては、(こっからネタバレあり)宇宙船の中で目に見えないモンスターが暴れて、主役であるローラという女性は、敵を倒しながら宇宙船から脱出する、という単純なものです。
ただし、主役であるローラは実はサイボーグであり、この宇宙船から逃げられたのは、サイボーグの彼女だけであったという落ちが付きます。
プレイした当初は何もわかりませんでした。
ただ、そのBGMはマイケル・ナイマンが担当しただけあって素晴らしく、今でもサントラよく聴きます。
どんな時に「ENEMY ZERO」のサントラを聴くかというと、ぐったりしているときです。
もう、何も考えたくなくなって、じっとしていたい時には「ENEMY ZERO」の曲を聴きます。
今日も仕事に疲れて、ドトールで一日の振り返りをしながら、「ENEMY ZERO」の曲を聞いていました。
ふと。
彼のいう「デジタルな悲しみ」が理解できそうな感じになりました。。。
「実存は確率によって解体されてしまう。。。」というニュアンスを軸にすると、何となく理解できそうです。
主役であるローラの未来像は確定的です。
サイボーグなので、行動はデジタルに規定されています。
彼女は良く出来たサイボーグなので、ほとんど人間に近いんです。
いろいろ思い描く能力もあるようなのですが、その全てはデジタルな反応でしかない可能性が高いんです。
つまり彼女は、生まれながらに「このようでありたいがこのようでしかない」という生き方を与えられてしまっているんです。
実際、このサイボーグの制作者も登場して、彼女に対して保護者的な態度を取ろうとします。
しかし、彼女は「抵抗」するんです。
目に見えないモンスターと闘わなければならないという限界状況がそうさせているのかわかりませんが、自分の行動を規定している確定的な運命に「抵抗」を繰り返して生き抜くんです。
・・・そうなると、ロボットに自我が芽生えて云々っていう理解をしてしまいそうですが、それはちょっと不粋な気がします。。。
そうではなくて、飯野さんは、確定的な現在に抗って自分の在り様を切り開いていくニュアンスに、人間性というか、それこそ実存的な「このようであるがこのようでもありたい」という部分を表現したかったのではないでしょうか?
彼女はサイボーグなので、確定的に訪れる未来像に抵抗し、生き抜くことが出来ました。
僕は人間なので、どんな未来像が訪れるかはランダムです。
自分の自己像を規定しようと襲い掛かってくる確率の群れに対する「抵抗」も、成就できるかどうかはわかりません。
しかし、まぁ、「抵抗」することが実存的な人間味だとすると、そこそこの抵抗活動も“粋”なんじゃないでしょうか?
「ENEMY ZERO」のサントラには「ENEMY ZERO」というタイトルの曲が入っています。
この曲は、おどろおどろしい曲です。
でも、力強い曲でもあります。
「抵抗」のテーマ曲かも。