リネンノテマエ。

人柄とか、その人のもつ人間的な魅力っていうのは、やはり大切なんだろうなぁってあらためて思いました。ここでいう人間的な魅力っていうのは、なにも倫理的・道徳的に正しい行いをする人とか、なにかのスキルに長けているとか、そうしたことではありません。

そうではなくって、“ちゃんと生きている”って感じです。。。

・・・ああ・・・言葉にならない・・・うまく表現できないんですが、この“ちゃんと生きている”っていうのをもうちょっと詳しく表現すると、「その人が生きざるをえないような既に起こっている現在を、なんとか自分のものにして、その生きざるをえない現在の中で生きうる限り生きている」って感じになります。。。

まぁ、概念化すると「実存的に生きている人」になるでしょう。。。

そして、何よりも大切なのは、この実存的な生を、なんらかのカタチで人に伝える手段を持っているということになるでしょう。たとえばその手段というものは、人によってはいびつなカタチになっているかもしれません。ある人は音楽や詩になるかもしれないし、病的な症状になるかもしれない。おそらく、一番身近な伝える手段というものは、言語的であれ非言語的であれ、人と人との直接的なやりとりになるでしょう。(※)そんでこのやりとりのなかから「あぁ。この人は実存的な生を生きているのだな」という感覚的な了解が、その人のもつ人間的な魅力というものにつながるのだと思いました。

っていうのも、最近はいろんな場面で、現実から遊離した理念がふわふわと飛び交っている姿を目撃するからです。そして、それが現実離れした理念化してしまうのは、その理念の手前にある生きられた現在が無視されてしまっているからのように感じられます。

なので、僕らは理念を語る以前に、まずは、その人が生きざるをえずに生きてしまっている直接的な現実に帰還して、その現実から生きうる限り生きれる可能性とはどんなものなのか、思い描いたり、捉え直したり、そうする作業が必要になってくるのだと思います。

そこからスタートして、はじめて理念は生気づけられるのだろうなぁ。。。

以上のことを概念化すると、「理念を駆動させる起成因としての現実の点検作業の必要性」って感じになりますが、これが僕らには必要なんだろうなぁ。。。

(※こんなふうに表現すると、「インターネットやメールなどは、直接的なやりとりを阻害するもので、そんなものに頼っているから人はコミュニケーションがとれなくなるんだ」なんていう安易な文明批判が出てくると思うのですが、それは安直すぎると思います。僕らの現実はネットのなかにも拡張されている。それもまた“生きざるをえないような既に起こっている現在”に属するのだと思う)