考える少女。

26日のことです。

この日は買い物に出かけました。

そして、帰りの電車の中で、“考えるとは何だろう?”と考えていたら、前に座っている少女が眉間にしわを寄せて何かを考えていました。。。

僕はこの少女じゃないから、彼女が何を考えているのかを知るよしもないのですが、眉間にしわを寄せて悩んでいるその表情は、とても好感が持てました。

先日、思想についての本を読みました。

その本は、思想の歴史について書かれた本で、近代哲学から現代哲学、ポストモダニズムといった現代思想まで、とてもわかりやすく書かれています。

この本の冒頭で、著者は面白いことをいいます。

「私は、思想について皆様より多少知識はあるかもしれません。だからといって、思想をよく理解しているかといったら、そういうわけでもありません。思想をするうえで大切なのは、“自分で考える”ということです。自分で考えるということは、その者の中で問題になっている事柄を、一番単純な形で概念化して、その純化された概念を利用しながら論理を展開していくということです。」

この本を頼りに思想の歴史を眺めていくと、、そこには、いろいろな人がその人の中にある問題と、その人が生活している世界との間で格闘をしている様が見て取れます。
おそらくその人が感じているであろう、世界に対する違和感を、何らかの形で概念化しようと、必至にもがき苦しんでいる姿が見て取れます。

自分にとっての問題を知ること、自分はどんなことに違和感を感じているかを知ることは、とても難しいことだと思います。

例えば、ここ数年、インターネットの中では、ウェブ上に自分の活動のログを残すことが流行っています。
いわゆるウェブログ=ブログです。
ネットを徘徊して、ブログをめぐっていると、やはり、思想を取り扱ったブログに行き当たります。
しかし、“自分で考える”人のブログに行き着くのはなかなか稀です。

多くのブログは、思想に対しても客観的な正しさを追い求めることに終始しているように感じられます。
つまり、「いついつにどこどこのなになにという人物が、これこれという思想を語った」、「いやいや、その思想はどこどこのなになにがこれこれという論駁をしている」、「おやおや、それは〇〇年ではなく〇〇年だwww」・・・というような、標本研究的なやり取りが延々と続いていくものです。
それは、客観的な正しさを求めるようなやり方です。

確かに思想に対しての知識は増えていくかもしれませんが、“自分で考える”とは、若干性質の違った活動のように思われます。

しかし、ネットを徘徊していると、時たま、おそらく自分で考えているであろう人のブログに行き着くときがあります。

そうした方の文章は、正直読みにくいです^^
あっちに行ったりこっちに行ったり、悩んでは立ちどまり、思い返しては突き進んで、知っている思想家の言葉を借りて表現したり、それでも言葉が足りないものだから、自分の言葉で世界を言い当てたりして・・・。

しかし、その人が論理的に真摯な道を歩もうとするのなら、僕たちにはその人を理解する余地が残されています。
その文章を読んでいる僕も、彼のたどった道を同じようにたどりながら思考実験を繰り返していけば、そのうち“なるほどなぁ”と共感に至ることもあり得ます。
自分で作り出したようなあり得ない言葉でも、その言葉の中身を言い当てて、論理の形式に乗せて解き放ってあげれば、そこにコミュニケーションの道は開かれています。

僕も右往左往しながら毎日過ごしているわけですが、自分の中で何が問題になっているのか?、何に違和感を感じているのか?、こうしたことを一番簡単な形に概念化する作業、つまり、“自分で考える”作業はまだまだ続いていきそうです・・・っていうか、微妙にエンドレスっぽいですw


さて、電車の中で眉間にしわを寄せていた少女は、いったい何について考えていたのだろうか?